―眠い…―
己の意識を飲み込もうとするそれに、抗う力はもう残ってなくて。
ずるずると円座を日溜りに引きずっていくと、こてり、横になる。
頬に当たる円座の網目がちくりとしたし、腰骨に当たる床板の感触は固く、どちらも少し痛かったが、それすらも、強い眠気の前にはどうでも良くて。
柔い日差しは、ひどく暖かい。
微かに吹き込んでは、頬を、髪を撫でていく、優しい風。
―早く帰ってこないかな…―
ばらけ始めた思考の中、不在の大師を、ぼんやりと思う。
けれどもうそれすらも、長くは続かなかった―。
ふっと、浮上する意識。
途端、身体を取り巻く僅かな寒さに軽く身を震わせる。
ゆっくりと目を開ければ、先程より少しずれた日溜りが、少し先の床の木目を、柔く滲ませていた。
見渡す部屋はどこかがらんとしていて、それはそのまま、大師がまだ帰ってはいないことを、犬神に伝える。
いつものことだけれど、やはりそれは、ほんの少し、寂しくて。
しょんぼりと垂れ下がる耳が、不意に捉えた、簀子の軋む音。
はっとして顔を上げれば、鼻腔を掠める、白檀の香り。
「大師様っ」
ほとんど反射的に跳ね起きて、簀子に飛び出せば、ふわりと、柔和な笑みに受け止められる。
そのまま己を抱上げてくれる腕に、ぎゅっとしがみつけば、優しく頭を撫でてくれる手が心地良い。
「寝てたのかい?」
「寝てません」
苦笑交じりの不意の問いに、無意識に口をついて出たのは嘘の否定。
その言葉に、同じ目線になった大師が、揶揄するように覗き込んでくる。
「鼻が乾いているよ?」
「―――っ?」
思わず鼻に手をやり、己の目先、映る人の手に、はたと気付く。
「人の鼻は乾きませんっ!」
膨れて見せれば、犬神を抱上げる大師の肩が、小刻みに震え出す。
背けられた顔は、明らかに笑いを噛み殺すもので。
更にむくれる犬神に、大師はようやっと笑いを収め、苦笑を返しながらくしゃり、犬神の頭を掻き乱す。
「悪かったね。…でもほっぺに円座の跡がついてるよ」
指し示された頬に這わせた指の腹、捕らえるのは僅かな凹凸。
「……」
寝起きのそれでなく、頬が熱くなるのが分かる。
思わず、俯いて視線を逸らす。
「嘘はいけないね」
「…ごめんなさい」
情けなさそうに耳を垂れる犬神の頭を、また、大師の手が優しく撫でる。
それに促され、顔を上げれば、自分を見つめる、柔和な笑顔。
つられ、照れたように笑う。
「大師様っ」
唐突な、少し甲高い声に振り返れば、数人の小僧達が、簀子を見上げていた。
「おやまぁ皆どうしたんだい?」
突然現れた第三者達に、犬神の身が、反射的に強張る。
それをそっと、宥める様に撫でる大師の手。
大師の言葉に、小僧達はその手に持ったものを、高欄越しに差し出してきた。
「これは…あけびじゃないか」
「大師様に上げます」
自分たちとて食べたい盛りだろうに、惜しげなく渡されるそれに、大師が皆に慕われているという事実が、嫌と言うほどに見て取れて。
知らず、犬神の心が曇る。
「良いのかい?」
「はい」
揃う声に、それに返す大師の言葉に、突然場から弾き出されたような形になった犬神は、身を捩って大師の腕から降りようとした。
会話はもう、朝のお勤めがどうとか、完全に犬神の入る余地は無いものに流れていて。
それを察した大師は、みなの前で赤子のように抱上げられているのが嫌なのかと、小僧達と会話を続けながら、何も言わずに犬神を降ろしてやった。
己から降りたいと言い出したくせに、何も言わずに降ろされて、それが更に、犬神に疎外感を突きつける。
大師が、小僧達に取られてしまった。
それでも、見知らぬ小僧達の間に割って入る勇気は無くて。
「―――っ」
今だ小僧達と続く会話に、犬神は無言で、部屋にとって返すと、再びこてりと、円座に横になる。
それでも、聞こえてくる楽しげな会話。
自然、むくれる頬に、ちくりと円座が痛かった。
「犬神?あけびを貰ったよ。食べるかい?」
「いりません」
小僧達に礼を言って、別れを告げて、部屋に戻ってみれば、犬神が部屋の隅で膝を抱えていた。
その、幼さ故の柔らかな頬は、ぷくりとむくれていて。
視線も合わそうとしない犬神に、大師ははてと小首を傾げた。
先程までは、確かに機嫌が良かったはず。
いつも素直な犬神がこんな態度を取るのは珍しい。
「大師様は…小僧さん達が大事ですか?」
相変わらず視線は床板の木目を睨みつけたまま、零れた言葉に、大師の中で合点がいく。
そのあまりの微笑ましさに、知らず、口元に浮かぶ微笑。
「そうだね。皆大事な子だと思っているよ」
その言葉に、犬神が弾かれたように顔を上げた。
じわり、その幼子特有の黒目がちな大きな瞳に、滲む涙。
「でもねぇ…」
胡坐を掻いた膝の上、犬神を抱上げてやりながら、言葉を続ける。
先程の小僧達だろうか、遠くで、はしゃぐ声が聞こえた。
何時もなら直ぐに響くはずの兄弟子の怒声が聞こえないから、小僧達だけで、夕餉の薪でも、拾いに行っているのだろう。
「皆にはそれぞれ、親がいる。親が子を思う心が、この世で何より強い」
大師よりも高い、子供の体温をもつ犬神の背を、宥めるように優しく叩いてやりながらその、今にも泣き出しそうな顔を覗き込む。
漆黒の瞳に映る、大師の影。
「だからね、私はこの世で何よりお前が大事だと思っているよ」
一瞬、犬神の目が、零れんばかりに見開かれた。
それは直ぐに、ひどく嬉しそうな笑い顔に変わって。
「俺も大師様が一番、一番大事ですっ」
首筋に抱きついてくる小さな身体を受け止めて、大師の口元、浮かぶのは、ひどく慈しみに満ちた、優しい微笑。
「ありがとう犬神」
くしゃり、その柔らかな髪を優しく掻き乱すように撫でてやれば、犬神が、照れたように笑った。
互いの心に通うのは、温かな、確かな情。
それはそのまま、犬神の心を満たし、その強い精神を支え、育む糧になると、大師は信じていた。
己を見上げる、幼くも強い光を湛えた瞳に、それを確信する。
それを受け止め、見返す大師の瞳は、何よりも強い、慈しみと優しさに満ちていて。
上げられた蔀から吹き込んでくる穏やかな風が、二人の、温かに満ち足りた空気を揺らしては流れて行った―。