さわさわと。
最近、すっかり秋めいた風が、頬を撫でる。
湿気の無いそれは、随分と心地良い、はずなのだけれど。
遠くに見える、晴れ渡った秋空とはほど遠い、どんよりと重い臭気が、離れの部屋に立ち込めていた。
「………」
そっと、目の前の大妖に気付かれぬよう、袂で鼻を被う。
離れの主は、もう一人の兄やと出かけていて。
日ごろ服薬を拒絶する、主のいぬ間に、と、いうことなのだろうけれど。
薬の調合を始めた仁吉の所為で、騒がしい鳴家たちすら、寄せ付けぬほどの、酷い臭いが立ち込める。
「何も此処で調合しなくたって…」
「だったら出て行けば良いだろう」
つい、零れてしまう非難めいた呟きを、耳聡く聞きつけれて。
間髪いれずに、返された言葉に、屏風のぞきは、本体のなかで、不服そうに唇を尖らせた。
出て行ってやろうとは、何度も思ったのだけれど。
「………」
何故だか、それをする気にはなれなくて。
何故、と考えた時、脳裏に浮かぶ、あらぬ考え。
屏風のぞきは慌てて、ふるふると頭を左右に打ち振って、思考を中断させる。
頬が、熱い。
「若だんなが帰ってこられたとき、すぐに飲んでいただかなくては、ならないからね」
「へ?…あ、あぁ。そうだね」
不意に、掛けられた言葉が、先程の自分の呟きに対する、応えだと気付くのに、寸の間、掛かる。
お陰で随分と間が抜けた相槌を打ってしまったのだけれど、仁吉は気に留める風も無く、ことりことりと、火鉢にかけた鉄鍋で、何やら良く分からないものを、煮詰めていた。
「……けほ…っ」
一層、きつくなり始めた臭いに、軽く咽ながら。
内心、此処にはいない部屋の主に、心からの同情を、寄せる。
―それでも、効くんだものねぇ…―
ことり、ことり。
鍋をかき回す手に、自然、視線が引き寄せられる。
その手は器用に、生薬を刻み、薬包に包む。
それはいつだって、一太郎ただ一人の為に、動かされて。
けれど、唯一、その細く白い指先が、ほかの誰に触れる時とも違う意図を持って、動くことを、自分は知っている。
その、形の良い指先が、ひんやりと冷たいことも。
綺麗に切り揃えられ、整えられた桜色の爪が与える、小さな痛みも。
自分は、知っている。
そう、思った途端、思考に付随する記憶に、ざわり、背筋がざわついて。
思い出す熱に、屏風のぞきの目元に、朱が走る。
慌てて、仁吉の手から、視線を引き剥がして。
一人、立てた膝に、顔を埋める。
気恥ずかしさに、頬まで熱い。
「おい」
不意に、本体の表面に、違和感を感じて。
顔をあげた途端、頤を、先程まで見つめていた、細く白い指先に、掬われる。
強引な仕草で、上向かされて。
いつもなら先ず、睨みつけるのに。
今はただ、熱を持った己の頬ばかりが気になった。
「何だい」
それでも、見下ろしてくる目が、面白そうに笑うから。
屏風のぞきは慌てて、身構えるように、睨み上げる。
「そんなに、お気に召したなら、手だけ置いていってやりたいところだけどねぇ」
「は?…―――っ!」
揶揄するように、告げられた言葉に、怪訝に眉根を寄せたのは一瞬で。
意味深に頬を撫でる指先に、意図を読み取って。
すぐに、その頬は、先程のそれに比べてはっきりと、朱に染まる。
仁吉は気付いていたのだ。
屏風のぞきの視線に。
「性質の悪いお人だね全く!」
信じられないと、今更喚いてももう遅い。
屏風のぞきは、頬の手を振り払うと、不機嫌そうに、そっぽを向いた。
その様に、くつくつと、喉の奥で押し殺したような忍び笑いを漏らすのが、憎らしい。
いっそ本当に出て行ってやろうかと、思ったとき。
「今夜、部屋にきなよ」
口調だけは、随分と偉そうなくせに。
ちらり、見上げた先、ぶつかったのは、ひどく優しげな視線。
「気が向いたらね」
とくり、不覚にも脈打つ胸に、気付かぬふりをして。
生意気に返す声は微かに、上擦っていた。
ゆうらり、行灯の灯が、揺れる。
襖に映る、二つの影が、一つに重なる。
身体を辿る指先が、どうしようもなく、屏風のぞきの熱を煽った。
綺麗に切りそろえられ、整えられた桜色の爪が、内腿の柔い皮膚に立てられて。
その、小さな痛みに、思わず、悲鳴を上げる。
くすり、上から降ってくる忍び笑いを、睨みつける余裕すら、奪われて。
与えられる快楽に、意識は白く、飲み込まれる。
「舐めて」
唇をなぞるように。
目の前に差し出された、細く白い指に、言われるがまま、舌を這わせる。
いっそ、従順なほどに、指先に舌を絡ませるのは、この先にある快楽を、知りすぎるほど良く、知っているから。
「――痛っぅ…」
不意に、口腔内に強く、指先を差し込まれて。
意地の悪い動きをした指先が、柔らかに濡れた粘膜を、爪で掻く。
その、ほんの小さな痛みすら、もう、快楽に変わっていて。
もっと、もっと、と、身体が求めるまま、舌を這わせる。
根元まで深く咥え込んで、指の股まで、丁寧に舐め上げて。
飲み込みきれない唾液が、屏風のぞきの白い首筋を、伝い汚す。
「やらしいね…」
耳元、揶揄するように、囁き落とされるその、声音にすら。
耳朶を掠める吐息に、ぞくり、身体を震わせてしまう。
「ふ…っ」
不意に、指先は引き抜かれて。
仁吉の、細く白い指先に、屏風のぞきの唾液が、糸を引く。
見せ付けるように、翳されるそれに。
思わせぶりな動きをするその指先に。
屏風のぞきは自ら、誘うように、脚を開いていた。
「淫乱」
恥辱に塗れた、囁きと同時。
与えられた、待ち望んだ快楽に、屏風のぞきは喉を仰け反らせて、啼いた。
ふと、何かが意識を揺らした気がして。
意識は、夢と現の堺を、漂い始める。
「ん……」
不意に、細く白い指先に、唇をなぞられて。
身に馴染んだ感覚に、ただ、何も考えずに、己から舌を、絡ませる。
一層深く、咥え込んだ時。
くすり、降って来た忍び笑いに、屏風のぞきはぼんやりとした意識のまま、ようやっと、その瞼を開いた。
「………?」
ぼうっと焦点の定まらぬ視界は、薄闇に包まれていて。
ひどく面白そうに笑いながら、見下ろしてくる仁吉を、屏風のぞきはただ、ぼんやりと見上げる。
そっと、屏風のぞきの唇から、指先が引き抜かれて。
細い銀糸が、仁吉の指先に、絡み付いていた。
「朝から積極的だねぇ」
くつくつと、喉の奥底で笑いをこらえながら。
揶揄するように、投げかけられた言葉に、屏風のぞきは不思議そうに、小首を傾げる。
まだ、覚醒しきらぬ頭に、ゆっくりと、仁吉の言葉が、入り込んできて。
―朝…?―
ゆっくりと、視線をめぐらせて。
其処が、記憶と同じ、仁吉の部屋だと、知る。
けれど、仁吉はもう既に、身支度を整えていて。
途端に、一息に思考は、繋がった。
「あ…っ!違っ!ね、寝ぼけてたんだよっ」
ただ、唇に触れられただけだというのに。
自分は、無意識に、舌を絡めていて。
それほどまでに、己の裡深くまで、馴染んでいた習い性。
無意識に、仁吉を求めていたという、その、事実に。
もう、耳まで熱い。
「お相手して差し上げたいところだけどねぇ…。あたしは仕事があるんだよ」
にいこりと、人好きのする笑みで、濡れた指先を見せ付けてくるのに。
なんて性質の悪い奴に捕まったんだと、後悔しても、もう遅い。
「さっさと行きなよっ!」
「はいはい」
噛み付く様に言えば、声を立てて笑いながら、立ち上がる。
襖に、手を掛けたまま、唐突に振り返ったと思ったら。
「夜まで待ってな。…構ってやるから」
嫣然と、微笑する様は、ぞくり、思わず、背筋がざわつくほど。
軽く、己の指先、屏風のぞきが、舌を絡めたその指先に、ちろり、舌を這わせる。
その、小さくのぞいた、赤い舌先が、酷く艶かしくて。
屏風のぞきは思わず、視線を逸らしていた。
「か、勝手に言ってなよっ」
精一杯の虚勢で。
生意気に返す声は、情けないほど、上擦っていた。
その様に、仁吉は一人、満足げに笑って。
ぱたん、襖の向こうに消えた。
「もう死にたい…」
遠ざかる足音に、ばたり、布団に倒れこみながら。
屏風のぞきはしばらく、熱い頬を持て余すことになった。