障子を開けた途端、耳に届く苦しげな呼吸音に、佐助はそっと、眉根を寄せる。
広い手代部屋に、ぽつんと一つ、敷かれた布団が、ひどく寂しげで。
歩み寄れば、仲間達が置いて行ったのか、粥やら、水差しやらが、枕元に並べてあった。
そこには、松之助に対する、皆の思いが、見て取れて。
思わず、目元が和む。
「松之助さん?」
呼びかけても、返事は無い。
膝を着いて、覗き込んだ顔は、熱に上気して。
乾いた唇から漏れる、ひゅうひゅうという呼吸音は、ひどく苦しげで。
何かに耐えるように、眉根を寄せて、閉じられた瞼が、開く気配は無かった。
枕元に用意された粥にも、手をつけた後が、無い。
その姿に、つい、病に伏せる、一太郎を思い出す。
「手拭、替えますね」
一人、零すように呟いて。
ちゃぷん、微かな水音と共に、持ってきた手桶に、手拭を浸す。
適度に、水気を含ませて。
慣れた手つきで、額に濡らした手拭を、置いてやる。
「ん…」
ひんやりと冷たいそれが、意識を揺らしたのか。
松之助の瞼が、何度か震えて。
ぼんやりと、焦点の定まらぬ瞳が、佐助を捉えた。
見上げてくる、その眼は、熱に潤んでいて。
佐助はついと、眉を顰めた。
「苦しいですか?」
「ぁ……っげほ…っ」
何事か、答えようと、唇が震えたかと思ったら。
それはすぐさま、咳を呼び込んだらしく、一息に、松之助の喉を塞ぐ。
「無理に喋らないで。…花梨湯を持ってきましたから」
抱き起こして、背をさすってやりながら、片手で、用意しておいた茶瓶から、湯飲みに注ぐ。
ふわり、辺りに甘い香りが、漂った。
「口、開けて」
震える手指では、湯飲みは持てぬだろうと判断して。
軽く、注いだ花梨湯を、口に含む。
「……?」
咳が、収まった頃を見計らって、唇を合わせる。
かさついた唇から、漏れる吐息が、熱い。
松之助は、ぼんやりとした意識のまま、口腔内に流し込まれた花梨湯を、飲み下す。
震える指先が、力なく、佐助の袂を握った。
「落ち着きましたか?」
僅かに、口の端を伝う液体を、親指の腹で拭ってやりながら、顔を覗き込めば、濡れた唇が、僅かに、震えて。
聞き逃さないように、耳を寄せる。
「はな…れ、て…」
掠れ、弱々しい声音に、佐助は小さく、苦笑を漏らす。
そっと、汗で張り付いた髪を、梳いてやる。
「あたしは身体が丈夫だから。…このくらいで伝染ったりしませんよ」
真逆、自分は人の身とは違うから、人の病は伝染らない。とも言えるわけも無い。
安心させるように、笑い告げれば、松之助が微かに、困った様に、笑った。
「痛ぅ…っ」
途端、唇が切れたのか。
僅かに、眉根を寄せる。
濡れた唇に、滲んだ赤が、痛々しい。
蜜蝋も持って来れば良かったと、佐助は内心、後悔する。
「もう少し、飲みますか?」
松之助が頷く前に、もう、湯飲みを手にしていて。
兎に角、水気を取らせなければと、もう一度、唇を合わせる。
佐助の唇から、松之助の唇へ。
温かな甘味が、移る。
「……ん…」
やはり、喉が渇いていたのか、
こくり、素直に、松之助の喉が、上下する。
舌先に触れた、微かな血の味に、ついと、眉を顰めて。
そっと、労わるように、舌で傷口をなぞる。
柔らかに濡れた感触が、心地良いのか。
応える様に開いた松之助の唇から、ほんの少し、飲み込みきれなかった、琥珀色が、零れた。
「………」
ひどく優しい仕草で、それを指の腹で拭ってやって。
もう一度、花梨湯を口に含んで、唇を合わせる。
そうやって、何度も、口移しで、飲ませてやって。
二杯目の湯飲みが空になった頃、ようやっと、唇を離した。
「薬、飲めそうですか?」
そっと布団に横たえてやりながら、問いかければ、松之助が僅かに、身を硬くするから。
その、義弟と同じ反応に、つい、笑ってしまう。
「仁吉の薬は、本当にひどい味ですけど、本当によく効くんですよ」
言いながら、宥めるようについ、頭を撫でてしまう。
布団の中で、松之助が戸惑うように、瞳を揺らした。
「本当に…すみま、せ…」
花梨湯のおかげか。
先程よりは僅かに、喋りやすくなったらしいその声は、酷く掠れていて。
佐助はそっと、喉に良いという塗り薬を、懐から取り出した。
「少し、ひんやりしますよ」
言いながら、蛤の合わせを、開いて。
指先でそっと、練薬を、掬う。
「……っ」
軽く、布団を捲くって。
ゆるくはだけさせた胸に、指を滑らせる。
喉下から、鎖骨へと指先を滑らせれば、冷たいのか、くすぐったいのか、その両方か。
松之助がぴくり、身を竦ませるから。
宥めるようにそっと、髪を梳く。
「これで、少し呼吸が楽になりますよ」
「…ぁ、りがと、ござ…」
切れ切れに、それでも礼の言葉を口にする松之助に、小さく、笑みを零して。
無理に喋るなと、唇に人差し指を押し当てて、言葉を阻む。
ゆるく、微笑を向ければ、松之助が困った様に、眉尻を下げた。
「さて…」
問題は此処からだと、一太郎が仁吉に調合させ、絶対に飲ませてくれと渡された薬湯に、視線を落とす。
冷めた今はそれほどの臭いではないが、温かな湯気を立てていた、つい先程までは、それはもう犬神である佐助には耐えられないほどの臭いを、立ち上らせていたのだ。
―まぁ、効くのは確かなんだけれど…―
どろりと濁った湯飲みの中身を見つめながら、思う。
松之助が風邪を引いたと聞いて、一太郎はひどく心配した。
当然、見舞いに行くと言い出して聞かなかったのだが、もし一太郎自身に伝染ったりしたら、それこそ、松之助は責任を感じて、長崎屋から出て行ってしまうかもしれませんよと半ば脅すように押し留めたのだが。
それでも、心配だ不安だというものだから。
一太郎を安心させる為に、仁吉が一太郎に出すのと同じほどに、上等の材料を用いて、作ったのだという。
―若だんなと同じもの、か…―
一太郎には悪いが、絶対に中身は知りたくない。
「………?」
じっと、湯飲みを見つめる佐助を、怪訝に思ったのか。
ぼんやりと、熱に潤んだ瞳で、松之助が見上げてくる。
その、乾いた唇からひゅうひゅうと漏れる、苦しげな呼吸音に。
熱に、赤くなった頬に。
佐助は意を決したように、再び、松之助を抱き起こした。
「我慢してくださいよ」
「………?」
言いながら、己も呼吸を止めて、一息に薬湯を口に含む。
思考が、ついて来ないのか、ただ不思議そうに己を見つめる松之助に、唇を合わせて。
少し強引に、口腔内に流し込む。
「―--―っ!」
鼻が詰まっていても分かる程にひどい味に、松之助の指先が、びくりと、跳ねる。
きゅっと、力の入らぬ手で、それでも、頤に掛けられた佐助の手首を、掴んできた。
「吐き出さないで。飲んでください」
反射的に、吐き出そうとするのを、咄嗟に掌で口を塞ぐことで、阻む。
苦しげに、眉根を寄せて。
それでも何とか、松之助が飲み下したのが、喉の動きで分かった。
よほど、苦かったのか。
ぼろり、生理的な涙が、眦を伝った。
「がんばりましたね」
苦笑を漏らしながら。
濡れた眦を、親指の腹で、拭ってやる。
その、佐助の目にも、うっすらと涙が、滲んでいた。
「口直し、いるでしょう?」
問いかければ、泣き出しそうな顔のまま、こくこくと頷くから。
思わず、笑ってしまいそうになりながら、もう一度花梨湯を、湯飲みに注ぐ。
それを、自らの口に含んで。
唇を寄せれば、松之助も、求めるように自ら、薄く唇を開いた。
口腔内に流し込まれた甘みに、残っていたひどい苦味が、和んだのか。
松之助の目元が和み、そんな様に、佐助の口元にも、小さく、笑みが乗る。
己も、口直しにと一口、湯飲みに口をつけながら。
これで、熱は落ち着くだろうと、少し、安堵する。
熱さえ下がれば、元々体力のある松之助なら、きっと、回復は早い。
「手拭、替えましょうか」
微笑いかければ、薬湯の所為で、無理矢理覚醒させられた頭が、再びぼんやりとしてきたのか。
焦点の定まらぬ、少し危ういような瞳で、見上げてくるから。
いつもの、きりきりと立ち働く姿とは掛け離れたその視線に、佐助は思わず、笑みを零す。
ちゃぷん、手桶に、手拭を浸して。
適度な水気を含ませて、再び額に置いてやれば、ひんやりとした感触が心地良いのか、松之助が小さく、息を吐いた。
その、瞼をそっと、掌で覆う。
「眠って下さい。寝て、起きたら、少し楽になっているはずですから」
そうしたら、お粥もたべれるはずだからと、笑い告げれば、掌を、睫毛が擽る感触がして。
松之助がそっと、目を閉じたのが、分かる。
薬が、効いてきたのだろう。
間もなく、寝息が響き始めた。
「お粥、温めなおさないとね」
一太郎に、卵と葱を言われるように言われていたから。
それも、用意しなければならない。
手桶の水も、替えてこようと、佐助は傍らの松之助を起こさぬようにそっと、席を立った。
「ああ佐助さん、まつの具合はどうだい?」
台所で粥を温めなおしていると、丁度、昼時だったのか。
手代仲間の治平に、声を掛けられる。
日頃、松之助と親しくしているからか、心配そうに眉根を寄せて、見上げてくるのに、佐助は笑って、頷いた。
「随分ひどい風邪みたいだけどね。仁吉が用意してくれた薬を飲ませたから、もう大丈夫だろうさ」
「そうかい、そりゃあ良かった」
「何せ仁吉さんの薬は若だんなのお墨付きだからな」と、屈託なく笑うのに、つられ、笑みを零す。
「番頭さんが、今日は佐助さんがついててくれるって言ってたからさ。なら安心だなと、皆で話してたところなんだ」
「皆心配してるみたいだねぇ」
「当たり前だろうさ」
大仰に目を見開いて言うのに、それだけ、松之助が長崎屋に馴染んでいる証拠だなと、佐助の目元が、和む。
「午後からも平気かい?何なら代わろうか?」
「いや、看病なら慣れてるから平気だよ」
自分で言って、言葉の悲しさについ、苦笑してしまう。
察した治平からも、苦笑が漏れた。
後で玉子酒を差し入れるというのを、まだその治癒段階ではないからと、丁重に断りを入れて。
そろそろ目を覚ます頃だからと、佐助はその場を後にした。
ぼんやりとした意識の中、夢と現を、彷徨って。
身体を包む、不快感に、目を覚ます。
途端に、ひどく寝汗をかいていることに、気付いて。
松之助はそっと、布団の中で眉根を寄せた。
けれど、そこには先程まで感じていた、重い倦怠感は無くて。
少し、身体が軽くなっていることに、気付く。
―佐助さんが持ってきてくれた薬が、効いたのかな…―
熱に浮されていて、はっきりとは覚えていないけれど。
傍らで、何彼と無く、世話をしてくれていたのは、覚えている。
前のお店なら、熱があろうと何だろうと、働かされていたというのに。
ありがたいことだと、思う。
―早く、良くならなくちゃ…―
そう思い、身を起こした途端、激しい眩暈に襲われて。
思わず、布団に手を付いてしまう。
寸の間、目を閉じて、それをやり過ごすと、枕もとの水差しを、引き寄せる。
思えばこれも、手代仲間が心配して、置いていてくれていた物だ。
みなの心遣いに、ほんのり、心が温かくなるような心地がしながら。
そっと、水差しから湯飲みへと、水を注ぐ。
「あ…っ」
力が、巧く入らなくて。
重い水差しを支えきれず、畳に派手に、零してしまう。
幸い、布団は濡れなかったものの。
染みになる前に、拭かなくてはと、視線で、手拭を探した時。
「おや、目が覚めましたか」
唐突に掛けられた声に、視線を上げると、なにやら器用に色々抱えて。
佐助が、立っていた。
「色々、すみません…」
耳に届く声は、弱々しく掠れた鼻声で。
まるで、自分の声ではないように、思う。
傍らに膝を着いた佐助の視線が、畳に零れた水溜りに、気付く。
「あぁ、無理をしてはいけませんよ」
言いながら、袂から取り出した手拭で、手早く拭き取ってくれるのに、松之助は申し訳なさそうに、眉尻を下げる。
その様に、佐助は小さく、笑って。
ふうわり、頭を撫でられた。
「薬が効いたみたいですね。少し、顔色がいい」
ひどく、優しげな微笑でそう言われ、つられて、松之助もはにかむ様に、笑った。
「水、飲みますか?」
「はい…」
そう言えば、己はひどく喉が渇いていたんだと、今更、思い出す。
水差しから湯飲みへ、今度は零れることなく、水を注いでもらって。
受け取ろうと、手を、差し出した時。
佐助が、先に水を含むのに、松之助は僅かに、小首を傾げる。
―佐助さんも、喉が渇いていたのかしら?―
そう、思った先。
不意に、佐助の指先に、頤を捕らえられて。
怪訝に思っている間に、唇を合わせられ、驚いて開いた唇から、水を、流し込まれる。
「ん…ぅ…」
口腔内に流れ込んできた水は冷たくて、確かに心地良かったけれど。
今はそれどころでは、無い。
「な…、え…?」
思考回路は、混乱するばかりで。
僅かに、口の端を伝う水滴を、佐助の親指の腹で拭われ、近すぎる距離にあった、その顔に。
頬が、風邪のせいでなく、熱い。
「まだ、飲みますか?」
言いながらまた、水を含もうとするのに。
慌てて、その手首を、掴む。
「松之助さん?」
「だ、大丈夫です。ひ、一人で飲めます、から…っ」
そう言えば、朧気な意識の中。
あの、唇の感触を、自分は知っていることを、思い出す。
一度といわず、二度といわず。
何度も、口移しで、飲ませてもらったのだ。
それも、ついさっき。
「………」
一度、思い出したそれは、止まる事がなくて。
そう言えば、自分から、せがんでいたようにも、思う。
思い出した事実は、今更、訂正が効くわけでもなく。
「松之助さん?大丈夫ですか?」
急に、俯いたまま、首筋まで朱に染める松之助を、佐助が心配そうに、覗き込む。
慌てて、顔を上げた先。
鼻先が触れ合うほどに近く、佐助の顔があって。
思わず、目を見開く。
「松之助さん?」
「あ、…」
巧く、言葉が出てこない。
佐助は全く意識をしていないのだから。
看病のための、行為なのだから。
気にしてはいけないと、思うほどに、意識は触れ合った唇に、流れてしまって。
どうしても、視線を合わせることが、出来ない。
「身体が、辛いんですか?」
「あ、いえ…大丈夫、大丈夫です…」
掠れた声で、何度も繰り返して。
必死に、両手を振る。
「じゃあ、身体、拭きましょうか」
「汗をかいて気持ち悪いでしょう」と、続いた言葉に、話題が逸れたことに、ほっと、安堵する。
身体も、拭いてくれようとするのを、何とか押し留めて。
硬く、絞ってもらった手拭を、受け取る。
「……っ」
また、身体を動かした途端、眩暈が襲う。
布団に手を付いた松之助を見かねた佐助に、手拭を取り上げられてしまった。
「ほら、無理しない」
「…すみません…」
情けなさそうに眉尻を下げる松之助に、佐助が小さく、苦笑を零す。
決して、無理をしているつもりは無いけれど。
やはり、身体はまだ辛いらしく、ふらり、支えてくれる佐助の腕に、寄りかかってしまう。
「あ…伝染る…」
「平気ですよ。…さっきも言ったでしょう」
はたと、気付いて。
身を離そうと身じろげば、宥めるように、髪を梳かれる。
可笑しそうに笑われたけれど。
言われた言葉は、あまり、記憶に無くて。
戸惑うように見上げれば、安心させるようにまた、髪を梳かれる。
近すぎる体温に、とくり、胸が騒いだ。
「今日ぐらい、誰かに寄りかかっても良いんですよ」
「え…?」
戸惑うように見上げれば、着物を替えてくれるついでに、仕上げだと、また、喉下に薬を塗られる。
ひやりとしたその感触に、肌を滑る指先に。
ぴくり、身を竦ませてしまう。
すっと、鼻に通るそれは、少し、呼吸を楽にしてくれた。
「松之助さんは、普段誰よりがんばってる。…だから、こんな時ぐらい、ゆっくり休んでも、良いんですよ」
「そん、なこと…」
ないと、思うけれど。
ひどく優しい微笑と共に告げられた言葉は、少しくすぐったいような心地が、した。
今まで誰にも、そんな言葉はかけてもらったことが、無かったから。
心の裡がほんのりと、温かくなるような心地がする。
「お粥、温めなおしてきましたから。食べるでしょう?」
「あ…すみません、頂きます」
朝は、とても手をつける気力など無かったけれど。
少し、熱の引いた今は、食べられそうな気がする。
「はい」
そう言って、口元にまで運ばれた匙に、松之助は思わず、目を見開く。
「ひ、一人で食べれますから」
「そうですか?」
食事ぐらいなら、眩暈も起こらないと言えば、佐助はきょとんと、目を見開いて。
不思議そうに小首を傾げながら、それでも、松之助に匙を、渡してくれた。
ふうわり、暖かな湯気が立ち上る。
「若だんながね、どうしても、松之助さんの粥には卵を落としてくれって」
「若だんなが…」
ふわんと、白い粥の上に乗るのは、黄金色の卵。
心配してくれているのだともうとまた、心の裡が温まる。
一口、口に含むと、少し塩味の聞いたそれは、温かくて。
知らず、目元が和む。
「食べ終わったら、また、薬湯が待ってますよ」
その言葉に、匙を持つ手が、一瞬、固まる。
佐助が、小さく苦笑しながら、袂から蜜柑を一つ、取り出した。
「これも、若だんなからの差し入れです。口直しに丁度良いですよ」
「…すみません…」
こんなにも、良くしてもらって。
いっそ、申し訳ないような心地に、させられる。
しょんぼりと眉尻を下げる松之助に、佐助が微かに、苦笑して。
話題を逸らすように、口を開いた。
「さっきは、がんばりましたね」
「え?」
何のことかと、小首を傾げれば、無言で、傍らに用意された薬湯を示される。
その、湯飲みの中身はどろりと濁っていて、思わず、視線を逸らしてしまう。
朦朧とした意識の中でも、その味は、身体が覚えていた。
「………っ!」
そう言えば、その薬湯さえも、自分は口移しで、飲ませてもらったのだと、不意に思い出して。
忘れかけていた気恥ずかしさが、蘇る。
唇に触れたのは、柔らかな感触。
その、奥にあるものにも、触れた気がして。
霞がかった記憶を、一つ、思い出す度、とくり、胸が騒いだ。
「松之助さん?」
匙を持つ手が、止まったのを怪訝に思ったのか。
佐助が覗き込んでくるのに、慌てて、再び匙を口に運ぶ。
どうにか、食べることのみに、集中して。
食後に渡された薬湯も、何とか、飲み下した。
途端、口腔内に広がるひどい苦味に、思わず、思考が攫われる。
空になった湯飲みを、佐助に返しながら。
「若だんなは…すごいです、ね…」
と、思わず、呟いて、佐助に苦笑されてしまった。
「じゃあ、片付けてきますけど、大人しく寝ててくださいよ」
一太郎への口癖が、口を吐いたのか。
真顔で、そう言って膳を下げてくれる佐助に、松之助は小さく、笑った。
ぱたんと、静かに障子が閉められて。
遠ざかる足音はやがて、階下に消える。
広い手代部屋に、一人になって。
松之助はそっと、息を吐いた。
「は、ぁ…」
ころり、布団に横になって。
そっと、乾いた唇を、指でなぞる。
指先で触れた途端、走った小さな痛みに、切れていたことを、思い出す。
労わるようにそっと、舌先で触れられたことも。
―……どうしよう…―
頬が、熱い。
心の臓がうるさいのは、決して、風邪のせいではなくて。
明日にはきっと、風邪は良くなると思う。
けれど、明日から、どんな顔をして、佐助の前に立てばいいのか、分からない。
佐助はきっと、気にしてはいないだろうから。
松之助も気にしなければ、いいのだけれど。
それが出来るほど、器用な人間でも、無かった。
―でも、兎に角、お礼は言わなくちゃ…―
一日、ついてくれているのだ。
まずは、それからだと、少しずつばらけはじめた意識の中、思う。
ゆうらり、ふうわり。
抗いがたい、眠りの波が、思考を飲み込もうと、する。
―明日…どうしよう…―
もう、瞼を開くことすら、出来なくて。
意識を手放す瞬間、ふうわり、誰かに髪を梳かれた気がした。
「おや…」
障子を開けた先、小さく、響く寝息に、佐助は軽く、目を見開く。
乾いた唇から漏れる呼吸音は、まだ、少し荒いけれど。
それでも、朝方ほどでは、無いことに、少し、安堵する。
「若だんなもこれくらい素直に薬が効いてくれたらいいんだけどねぇ…」
つい、そんなことを零しながら。
眠る、松之助の傍に、膝を着く。
苦悶の表情の解けたその寝顔は、どこか、あどけなくて。
つい、目元が和む。
「早く、良くなってくださいね」
言いながら、起こさぬようにそっと、ひどく優し仕草で、髪を梳く。
途端、松之助が小さく、身じろいだ。
「さ、すけさん…」
「ん?」
起こしてしまったかと、申し訳なく思いながら。
口元に耳を寄せても、返って来るのは寝息だけで。
寝言だと分かり、佐助は小さく、笑みを零した。
「いますよ、此処に」
呟きながら、もう一度、髪を梳いてやる。
熱も下がったし、こうして寝付いた今、お店に戻ってもいいのだけれど。
それでも、松之助が目が覚めたとき、傍にいてやりたいと、思う。
一太郎以外の人間の看病など、したことなどない。
他の誰かが、ついてやっても、別段構わなかったのに。
代わろうかと、声も掛けられたけれど。
松之助だけは、自分が傍に、ついていてやりたいと、ついていてやらねばと、思った。
どうして、そんな心持になったのか。
佐助自身が、その理由に気付くのは、それから少し、後だった。