はらはらはらはら。
本当に雪のように。
白く舞う花弁に、屏風のぞきは何気なく、その薄い掌を空へ向ける。
ふうわり、白い掌に、舞い降りる薄紅。
軽すぎるそれは、ふっと、吐いた吐息にさえ、簡単に舞い上がる。
はらり、舞い落ちていくそれを見るでも無しに目で追いながら。
小さく、手にした杯を傾けた。
「もう桜も終わりだね」
今は、闇に沈んでしまっているけれど。
空いっぱいに伸びた枝の下方は、真新しい緑が芽吹いていることを、屏風のぞきは知っていた。
「だからこうして取りに来てるんだろうが」
返って来た呆れた様な応えに、屏風のぞきの形の良い眉が、不満げに顰められる。
じろり、睨み上げれば、仁吉がぼきり、豪快な音を立てて、一等見事な枝を無遠慮に手折った所だった。
激しい揺れに、視界が一瞬、薄紅に染まるほど。
舞い降る花弁に、一瞬、息を呑む。
「何だい。取ったんならさっさと帰ればいいじゃないか。あたしは無粋な仁吉さんと違って風流人だからね。最期の桜を愉しんで帰るさ」
言いながら更に杯を傾ける、その後頭を、叩かれる。
ぱしゃり、酒が零れて、辺りに甘い匂いが立ち込めた。
そのまま、帰るかと思ったが。
意外にも、枝を片手に、仁吉は隣に、腰を落ち着けた。
「…何だ。帰らないのかい」
一体どういう風の吹き回しだと思ったが。
下手に突っ込んで、怒らせても敵わないので、大人しく杯を傾けるだけに留める。
「しかし…見事だね…」
恐らくは、今日が最期。
はらはらはらはら。
闇の風に、花弁が白く舞う。
「ああ」
返って来た、随分と素直な応えに、一瞬、目を見開く。
気恥ずかしいから、認めたくは無いけれど。
二人、眺めることのできた夜桜に、杯を傾ける口元に、つい、笑みが浮かぶ。
「そう言えば、あの人も桜が好きだったね…」
一人呟くように、零す。
懐かしさに、古桜を見上げる目元が、和む。
あの時は、真昼の桜だったけれど。
やはり、ひどく美しかった。
「懐かしいねぇ…」
傾ける杯と供に、飲み干すのは優しい思い出。
はらり、頬を撫でる柔らかな薄紅も、うららかな春の日差しも。
あの人の眼差しと同じほど、優しかった。
「随分愉しい思い出みたいだね」
不意に、降って来た声に。
何気なく、顔を上げて、目を見開く。
絡んだ視線の先には、酷薄そうな色を帯びた双眸があって。
ぞくり、全身が総毛立つ。
「どうし……っ」
一体何が仁吉の機嫌を損ねたのか。
警鐘が鳴り響く頭で考えるけれど、一向答えは見つからない。
噛み付くように口付けられて、軋むほどに手首を掴まれて。
手から零れた杯が、乾いた音を立てて、地面に転がる。
剣呑な空気には余りに不釣合いな、甘い酒気が、強く香る。
どうしようもなく怯えが滲み出す瞳で見上げれば、にやり、口角を吊り上げられて喉から引き攣った声が、漏れてしまう。
問い質そうにも、唇を塞がれてはかなわなかった。
「仁吉さ…っ」
訳が分からぬまま、裾を乱され、指を這わされて。
きつく身を押し付けられた古桜の、ざらついた幹が、むき出しにされた肌に痛い。
こんなのは厭だと、見上げた、滲んだ視界に、ただ薄紅が舞っていた。
「あんたなんか大嫌いだ」
散々に啼かされて、掠れ切った声で詰っても、視線一つ寄越さない横顔に、苛立つ。
軋む体に、無理を強いて。
白み始めた朝の空気に、埋もれていた薄紅から身を起こす。
その動きに合わせ、はらはらと、屏風のぞきから薄紅が零れた。
「何処行くんだい」
「帰るんだよ。…若だんなが心配するだろ」
立ち上がれば、あらぬところに走る痛みに、眉根を寄せる。
嗚呼畜生、目が腫れちまってるかもしれないと、重い瞼を押さえながら、漏らす舌打ち。
大事な若だんなはきっと、今の己の顔を見たほうが心配するだろう。
視線を落とした先、手土産の枝はそれでも、無事に花を咲かせていた。
「散々な目に合わせたんだ。桜は仁吉さんが持って帰りなよ」
不貞腐れたまま、それだけ言うと、鈍い足取りで歩き出す。
嗚呼畜生と、漏れるのは何度目か分からぬ、舌打ち。
「…おい」
呼び止める声に、苛立ちながら振り返る。
胡乱な目で睨みあげれば、感情の読めない顔が、見下ろして来ていて。
一瞬、怯みそうになるのを堪えて、睨みあげる。
「何だい」
「長崎屋はそっちじゃあないだろう」
「煩いよ。…こんな顔で若だんなのとこに帰れるか。守狐が帰ってきてるらしいからね。そっちに行くよ」
誰のせいだと思いながら。
軋む身体を引き摺って、馴染みの社へと、足を向けた。
その肩を、唐突に軋むほどに引き掴まれた。
「痛ぅ…っ!何…っ」
しやがると、続くはずだった言葉が、宙に浮く。
強引に、振り向かされて。
反射的に睨み上げたその目の奥。
滲む怒りに、思わず、黙り込む。
「ど、どうしたってんだい昨日から…。あんた様子がおかしい、よ」
怯みそうになるのを堪えて、訊ねる声が、どうしようもなく震えてしまうのが情けない。
それでも、訳の分からぬ怒りをぶつけられるのはもう堪忍してもらいたかった。
「お前は…」
「え…?」
何だと、低く零される声に、耳を寄せる。
途端、その白い耳に歯を立てられて、悲鳴を上げた。
鋭く走った痛みは、すぐに熱に変わって。
疼く耳を押さえる、その手指の隙間から、細く、赤が伝う。
「何すんだいっ?」
涙の滲んだ目で詰れば、首筋を伝う赤を舐め上げられ、ぞくり、肌が粟立つ。
「お前は…あたしのものだろう」
耳元、低く囁き落とされ、ざわり、胸がざわつく。
それは問いかけではなくて。
さも当たり前のことと、言い含めるような。
そんな、響きを持っていた。
「そんなわけ…」
無いと、続く言葉は、舌ごと絡め取られて溶け消える。
伏せる睫毛が、微かに震えた。
きつくきつく、息を奪うほどに、舌を吸われて、意識が揺らぐ。
ようやっと、離れた互いの唇を、透明な糸が繋ぐ。
吐いた息が、乱れた。
肩を掴んだままの手は、何処へ行くことも許さなくて。
覗きこんだ眼に、まるで、己の全てを喰らい尽くされてしまうような気さえ、する。
そこにあるのは、痛いほどの独占欲。
ようやっと、そのことに気付いて。
嗚呼なんだと、全てに合点が行く。
「何だい…。ただの焼餅か」
言葉にすれば、なんて事は無いが。
たったそれだけのことに、こんな目に合わされるのは、かなわない。
それでも、妬いてくれたと思うと、何処か嬉しい自分が居るのには、気恥ずかしいから気付かない振りで。
態と、疲れた様に、溜息なんぞを吐いてみる。
「痛…っ」
唐突に、髪を引き掴まれて。
強引に上向かされ、無理な角度で反らされた喉が、震える。
「お前は、あたしのものだもの」
艶然と、口角を吊り上げて笑う様は、整った顔に、似合いすぎていて。
どくり、胸がざわつく。
熱くなる目元を、気のせいだと誤魔化しながら。
「厄介なお方だよあんたは」
揶揄する様に笑ったつもりだったが、吐いた声は、震えている。
それなのに。
再び、薄紅に埋もれながら。
仁吉の首筋に、自分から腕を回している辺り、いい加減自分も重症だと、屏風のぞきは一人笑った。