どんよりと、垂れ込める雲は重く、暗い。
頬を撫でる風は、身を切るように冷たくて。
軽く、鼻を動かせば、捉える、風に混じる、微かな雨の匂い。
―そろそろかね…―
思い、傘を開いた途端、ぽつり、冷たい雫が、地面を濡らした。
ぽつり、ぽつりと、それはすぐに、人々の肩を、屋根を、濡らし始めて。
行き交う人々が慌てて、傘を開く。
空気は、一層冷えだして。
誰かが吐いた溜息が、白く、寒い。
仁吉も小さく、身を震わせて、帰路を急ぐ。
ふと、その視線の先、見慣れた背中を、見つけ出す。
「佐助」
肩を叩けば、驚いたように振り返った顔が、笑う。
「降りだしたね」
苦い笑いは、白い吐息となって、一層、寒さを際立たせる。
荷運びかと問えば、もう終わったと、返されて。
二人、傘を並べて、歩き出す。
「冬の雨なんて…一等嫌になる」
口元まで覆うように巻いた、襟巻きの下。
くぐもった愚痴を零す佐助に、小さく、笑みを零す。
「違いないねぇ」
応える仁吉の、白い耳は、赤い。
傘を持つ、色の薄い手指の先も、赤くなっていて、本人は一向、構う様子を見せないけれど。
見る者に、ひどく痛々しい印象を、与えていた。
「冷たくないかい?」
問いかけと共に、唐突に傘を持つ手を握られて。
立ち止まり、一太郎にするそれと同じように、両の手で包まれる。
不意に、寄せられる口元に、とくり、胸が騒いだ。
はあ、と、吐き掛けられる、白い吐息が、温かい。
急に、持ち上げられた手に、大きく傾いた傘から、冷たい雫が、背後に流れた。
「佐助…」
「お前ね、もう少し自分に構ったほうが良いよ」
呆れたように言いながら、やはり、一太郎にするそれと同じように、己の襟巻きを、巻きつけてきて。
ふんわりと、首筋を包むそれは、佐助の体温がそのまま、残っていて、ひどく温かい。
とくりと、また、胸が騒ぐ。
けれど、佐助には、欠片も、他意はなくて。
そのことが、痛いほどに良く、分かっているから、思わず、漏れる溜息。
「お前は、もう少し自分の行動を考えたほうが良いよ」
「は?」
訳が分からないと言うように、眉根を寄せるのに、軽く苦笑を零して。
「何でもないよ。…ありがとう。早く帰ろう」
一層、寒くなってしまった相方を促して、帰路を急ぐ。
傘を叩く雨は、いつの間にか、みぞれに変わろうとしていた。
「佐助兄ちゃんっ」
全く、突然に。
軒先から飛び出してきた小さな塊が、佐助に飛びつく。
視線をやれば、佐助の腰に、幼子がしがみついていて。
外での合間に、佐助がいつも遊んでやっている子供たちの一人だった。
元気が良い事の証なのだろうけれど。
薄い着物に、短い裾から伸びる素足が、寒々しい。
「おやぁ、どうしたんだい?」
「あそこで雨宿りしてたら、佐助兄ちゃんが見えたから」
見上げ、笑う顔は、ひどく嬉しそうで。
いつまでも佐助にしがみついたままの幼子に、仁吉は思わず、眉間に皺を寄せていた。
「雨宿りって…お前、傘は?」
「…今日は眠いって、家で休んでる」
可愛らしい嘘に、佐助は思わず、笑い声を立てたけれど。
先の見える成り行きに、仁吉の眉間の皺は、一層深くなるばかり。
「こんな寒い中にいたんじゃあ、風邪ひいちまうよ」
佐助の大きな手に、撫でられて。
幼子の目が、嬉しそうに、笑う。
「強いもの。平気だよぅ」
言う、その鼻は赤い。
白い吐息は、震えていた。
「朝から曇り空だったってのに、傘も合羽も持ってこなかったのかい。馬鹿な子だね」
「仁吉っ」
鋭い叱責を飛ばされて。
ふんと、そっぽを向く。
その目の端、仁吉のことは全く無視されて、話は進んでいく様で。
「うちはこの近くだったね。送っていってやるから」
「本当っ?」
歓声。
笑い、請け負う佐助の手が、幼子の頭を、撫でる。
傘を差しかけてやりながら、二人、仲良さげに歩き出す。
「佐助っ」
思わず、大きな声が出ていた。
「…?なんだい?」
怪訝そうに見返され、言葉に詰まる。
真逆、年端も行かない幼子にまで、妬いているとは言える訳が無い。
「…あたしも行くよ」
ようやく、低く零した言葉に、佐助の目が、大きく見開かれた。
「どうもすみませんでした」
「いえ。それじゃあ、あたしはこれで」
頭を下げる母親に、佐助は慌てて首を振る。
狭い家の奥から、幼子が手を振った。
「またねっ」
それに笑って、手を振り返して。
「先に帰ってくれてよかったのに」
ようやく、己の隣に並んだ途端、困った様に笑いながら、零された言葉に、仁吉の機嫌は一層、傾いた。
「随分懐いてるみたいだね」
「ん?あぁ。…あの年頃が一等可愛いねぇ」
憮然としたまま、零せば、気付かないのか、佐助は思い出したように、笑う。
佐助は子供が好きなようだけれど。
仁吉は、一太郎以外の子供など、可愛いとも思わないし、小煩いだけだとも思う。
「元気だよねぇ。この寒空の下でも、走り回ってさ」
笑いながら、話す声は、優しさが滲み出ていて。
また、仁吉の眉間に、皺が寄る。
「仁吉?」
立ち止まり、視線をやるのは、傍らを流れる川。
降り落ちるみぞれが、その水面を、打つ。
冷たい風が、一層、水面を乱していた。
その風に、乗せるように、傘を手放す。
ばしゃりと、逆さに落ちた傘は、ゆっくりと、流れ出して行く。
肩を濡らす、みぞれに、体温が、奪われるのが分かった。
「仁吉っ?」
驚いたような、責めるような佐助の声。
同時に差しかけられる傘に、みぞれは阻まれて。
濡れた肩を、手拭が叩く。
「馬鹿。何やってんだっ」
きつい声音は、確かに、仁吉のことを心配していて。
「風に傘を持ってかれるなんて、鈍いにも程が…」
「態とだよ」
佐助の言葉を、遮る。
奪うのは、差し掛けられた傘。
触れ合うほどに近く、身を寄せる。
「は?」
驚いたように、僅かに見下ろしてくる瞳に、口角を吊り上げ、笑う。
「態と、だよ」
「何?」
訝しげに、寄せられる眉根。
傘を、傾ける。
二人の姿が、一瞬、傘の影に、消える。
重い音を立てて、みぞれが、滑り落ちた。
「何すんだっ」
唐突に、唇を重ねられ。
人気がないとはいえ、往来でのそれに、佐助の目元が、朱に染まる。
それでも、狭い傘の内からは、逃れられなくて。
その様に、仁吉の目が、満足げに、笑う。
「お前が子供ばかりに構うからさ」
一瞬、佐助の目が見開かれる。
何か言いかけた唇は、けれど、疲れた様な溜息だけを吐き出して。
「さ。帰るよ」
満足げな笑みはそのままに、歩き出せば、佐助に傘を奪い返された。
「お前ねぇ…」
「お前はあたしのものだもの」
にやり、笑えば、佐助が困った様に、眉根を寄せる。
それでも、否定の言葉は、吐き出されなくて。
重い音を立てて、みぞれが、傘を打つ。
足元はすっかり、ぬかるんで。
頬を撫でる風は、刺すように冷たかったけれど。
一つの傘に、男二人は、随分と狭かったけれど。
それでも、その分、近づいた体温は、ひどく温かく感じられた―。