常夜灯も消えた真闇の中。
 微かに、空気が震えて気がして、目を開ける。
 妖の目でじっと見据えれば、布団の中から聞こえる、微かな泣き声。
 
―熱か…―

 そっと、屏風から抜け出して、その幼い寝顔を覗き込む。
 おたえの、ようやっと授かったこの子はひどく体が弱いから。
 夜中に熱を出したり、嘔吐したりなんていうことはこれまでに何度もあった。
 その度に、おたえを呼びに行っていたから。
 今夜もそれかと、まだ小さな額に手を当てれば、ひどく汗をかいているものの、熱は無い。
 ほっと、思わず、安堵の息が漏れた。
 いつの間にか、自分はこの子のことを気にかけるようになっている。
 照れ臭いような心地がしたから、そのことには気付かぬ振りで、もう一度、幼子の顔を覗きこむ。
 良く見れば、魘されてはいるけれど、熱を出した時のそれのように荒く、熱の篭った呼吸では、無い。
 苦しそうでは在るが、顔色も悪くは無かった。
 それでも。
 目の前で年端の行かぬ子どもが、泣いている姿と言うのは、随分と胸をざわつかせる。
 それが心配と名のつく感情だとは、照れ臭いような心地がしたから、気付かぬ振り。
 
「ぁ……」

 不意に、今まで固く閉じられていた瞳が、開いた。
 その拍子に、溜まっていた涙が、まだ柔らかい頬を、伝う。
 ぼんやりとした、焦点の定まらぬ瞳に見上げられ、焦る。
 自分事は、多分、気付いているだろうけれど。
 妖であることを、告げてはいない。
 まだ、告げる齢ではないと、思っていたから。
 余計な混乱を、幼い世界に持ち込みたくは無かった。
 その、幼い手が、唐突に、額に置いたままの、屏風のぞきの手を、握る。
 瞳はまだ、夢と現を、彷徨っていた。
 一瞬の逡巡の後、その小さな手を、握り返す。
 どうせ、朝になれば、忘れているだろうから。

「どうしたんだい?怖い夢でも見たか」

 初めて、口を利いた。
 一太郎は、やはり、寝惚けているのだろう、涙が零れるままにしゃくり上げ、ただ、「うん」と、小さく頷く。
 きゅうと、布団を握り締めていたままの片手が、屏風のぞきの頬に、触れる。
 そのまま、首筋にしがみ付いて来るのに、少し、戸惑う。
 
「すごく…すっごく怖かったよぅ…」

 まだ、震える声に、夢の残滓を見た気がした。
 ぼろり、零れる涙が、屏風のぞきの着物に染みる。
 嗚呼、染みになっちまうと、思わないでもなかったが。
 幼子一人の涙ぐらい、受け止めてやろうと、思い直す。
 そっと、かつて、守狐がおたえにしてやっていたように、小さな背を撫でてやる。
 夜着は、汗に湿っていた。
 
「そうかい。そりゃあ可哀想にな。…大丈夫。もう大丈夫だ。あたしがついてる」

 とんとんと、そっと優しく、宥めるように、背を叩く。
 守狐が、いつも口ずさんでいた子守唄を真似れば、震える嗚咽は、いつの間にか、穏やかな寝息に、代わっていた。
 腕の中の、小さな温もりに、知らず、零れる微笑。
 ぎゅっと、着物を握ったままの手指を、起こさぬようにそっと、解いてやって。
 布団に寝かしつければ、幼い寝顔にはもう、あの苦悶の表情は無かった。
 なんとなく、このまま屏風の中に戻る気にはなれなくて。
 その夜、屏風のぞきは一晩中、一太郎の傍に、着いてやった―。




 常夜灯も消えた真闇の中。
 微かに、空気が震えて気がして、目を開ける。
 妖の目でじっと見据えれば、布団の中から聞こえる、微かな泣き声。
 
―熱か…―

 そっと、屏風から抜け出して、その幼い寝顔を覗き込む。
 相変わらず、この子はひどく体が弱いから。
 熱なら、最近やってきたあの生意気で気に食わない兄やどもを呼びに行かねばならない。
 そっと、額に手を当てれば、ひどく汗をかいているものの、熱は無い。
 ほっと、思わず、安堵の息が漏れた。
 もう気付かぬ振りも出来ぬほど、自分はこの子のことを好いている。
 何より大事に、思っている。
 自分だけではない、この店の者皆が、この子のことをそう思っていた。
 その、大事な幼子の手が、唐突に、額に置いたままの、屏風のぞきの手を、握る。
 瞳はまだ、夢と現を、彷徨っていた。

「どうしたんだい?怖い夢でも見たか」

 言ってから、まるで数年前のあの夜と同じだと、苦笑する。
 初めて、言葉を交わしたあの夜と、全く同じ。
 一太郎は、やはり、寝惚けているのだろう、涙が零れるままにしゃくり上げ、ただ、「うん」と、小さく頷く。
 きゅうと、布団を握り締めていたままの片手が、屏風のぞきの頬に、触れる。
 そのまま、首筋にしがみ付いて来るのに、今度は戸惑うことなく、抱上げ、背を撫でてやる。
 いつの間にか、髄分と重くなっていた。
 寝付いてばかりだと思っていたのに。
 ちゃんと、成長しているんだと思うと、妙に感慨深かった。 
 
「すごく…すっごく怖かったよぅ…」

 まだ、震える声に、夢の残滓を見た気がした。
 ぼろり、零れる涙が、屏風のぞきの着物に染みる。
 もう、それを気にかけることすらなかった。
 汗に湿った背を、そっと優しく、宥めるように叩く。

「そうかい。そりゃあ可哀想に…」

 不意に、背中の襖が、開く。 
 言葉が、宙に浮く。
 
「坊ちゃん、どうなさいました」

 声が、聞こえたのだろう。
 妖の耳は、人のそれより早いから。
 厳しい顔色の、二人に、腕の中の幼子を、託す。

「悪い夢を見たんだよ。…大丈夫だ」

 問い詰められるより早くに告げれば、二人から、安堵の吐息が、漏れる。
 つい先日来たばかりだと言うのに。
 やはり、この二人の中でも、一太郎は誰より大切な存在になっていた。
 仁吉が素早く、灯りを灯す。
 真闇に包まれた部屋が、輪郭を取り戻す。
 一太郎の中の恐怖も、それは追い払ってしまったのだろうか。
 
「坊ちゃん、もう大丈夫ですよ」
「こんなに汗をかいて…怖かったでしょう」

 佐助の腕に抱かれて、縋り、しゃくり上げる一太郎。
 仁吉の手が、幼子特有の、柔らかな頬を伝う涙を、拭う。
 その全てを、数年前のあの日は、己がしていたと言うのに。
 まだ、自らの腕に残る一太郎の体温に、なんとなく、屏風のぞきは、場から弾き出された様な疎外感を感じた。
 なんとなく、寂しい様な心地がして。
 知らず、俯く。
 
「さぁ泣かないで。大丈夫ですよ。あたしらがついてます」

 嗚呼その言葉は、数年前のあの日、自分が口にしていたのに。
 今はただ、ぼんやりと見守ることしか、出来ない。
 これでは、屏風の中にいた頃と、変わらないじゃないか。
 なんとなく、悔しい様な、寂しい様な心地がして。
 知らず、着物の袂を握り締める。

「ほら坊ちゃん…」

 不意に、手を引かれた。
 急なそれに、意識がついていかず、前につんのめりそうになる。
 思わず、布団の端に、手を突いた。

「何…っ」

 どちらの仕業か分からぬけれど。
 兄や二人を睨みつけかけて、不意に、手を握られて、苦情の言葉が、宙に浮く。
 幼い手が、屏風のぞきの手を、握っていた。
 
「屏風のぞきも、仁吉も佐助も、ずぅっとずっと、坊ちゃんのお傍についてますよ」

 そう言って、ひどく優しく、仁吉が微笑う。
 佐助の手が、ひどく優しく、一太郎の布団を、叩く。
 幼い眼が、屏風のぞきを見上げてくるから。
 頷いて、その小さな手を、握り返してやる。

「だから安心して…眠りなよ…」

 一太郎が、ひどく嬉しそうに、微笑った。
 とん、とん、と、ゆっくりとした、ひどく優しい佐助の手が、一太郎の布団を、叩く。
 仁吉の、ひどく優しい指先が、柔らかな髪を、撫でる。
 また、数年前のあの日の様に。
 守狐が、いつも口ずさんでいた子守唄を真似てみる。
 その全てに、誘われて。
 一太郎は再び、穏やかな寝息を、立て始めた。
 その小さな手に、屏風のぞきの指先を握ったまま。
 知らず、三人の口元に、浮かぶ微笑。
 ぎゅっと、握ったままの手指を、起こさぬ様にそっと、解いてやって。
 布団の中に仕舞ってやる。
 何気なく、視線を感じて、顔を上げれば、二人揃って笑みを向けられ、面食らう。

「な、何だい…」

 一太郎を起こさぬ様に。
 小声で問えば、くすり、どちらともなく零された笑みが、薄闇を揺らす。

「いや…よく面倒を見てくれてるなと思ってね」

 その言葉に、つい先程の、己の胸の裡を見透かされたような気がして。
 かっと、頬が熱くなる。

「あ…当たり前だろう。あたしゃあんたらが来る前から、この子の事を見てるんだ」

 憎まれ口を、利いたつもりなのに。
 上擦った声が、己でも情けなかった。
 佐助が、笑い顔のまま、口を開く。

「あぁ、そうだったね。…これからも宜しく頼むよ」

 言いながら、ぽんと、肩を叩かれて。
 また、頬が熱くなるのが、己でも分かった。
 そんな屏風のぞきには構わずに。
 二人の兄やは、音も無く、部屋を後にする。
 後に一人、残されて。

「………」

 何となく、立てた膝の上に顎を乗せ、見つめるのは幼い寝顔。
 穏やかで規則正しい寝息に、知らず、浮かぶのは微笑。
 指先に、腕に残る温もりは、やはり、ひどく大切で、愛おしい。
 それは、数年前のあの日から、変わらぬ真実。

「言われなくとも…当たり前さね」

 ぽつり、呟いた言葉は、誰に受け止められることなく、優しい部屋の空気に溶け消えた―。