どんよりと垂れ込めるのは、梅雨の雨雲。
 じっとりと湿り気を孕んだ空気が、長崎屋の其処彼処に、満ちていた。
 そんな、空模様に、ふさわしいような。
 重い溜め息が、一太郎の唇から、零れ落ちる。
 いつもなら心配そうに眉根を寄せて、どうしたと訊いてくれる屏風のぞきも、この長雨が持たらす湿気で、身体が辛いのか、屏風から出てくる様子は無かった。

「………はぁ…」

 その木目に、うっすらと湿りを帯びた文机に、頬杖をついて。
 何度目か分からぬ、溜め息を零す。
 その眉間には、深く皺が刻まれていて。
 身体の調子が悪いのかと、鳴家たちが、心配そうに声を上げた。

「若だんなぁ。どこか辛いのですか?」
「どうされたのです?」
「兄やさんたちを呼んできましょうか?」

 きゅわきゅわと、口々に掛けられる言葉に、一太郎はゆるく苦笑して、首を振る。
 「大丈夫」と、口では言うけれど。
 その心は、晴れぬまま。

「………」

 また、零れそうになる溜め息を、どうにか胸の内に仕舞い込んで。
 暇があると、ろくなことを考えないから。
 何かする事はないかしらと、店表へと、席を立った。






「若だんな。いつになく箸が進んでませんよ」
 
 夕餉の際。 
 とうとう、仁吉に見咎められて、箸を持つ手が一瞬、止まった。
 具合が悪いのだろうと、はや、決めて掛かって薬を用意し始める。
 傍らでは佐助が、布団を用意し始めてしまう。

「違うよ…」

 小さく、否定してみたけれど。
 その弱い声音は二人の兄やの不安を、一層掻き立てただけだったらしく。
 仁吉の手が、そっと、額に触れた。

「熱は無いみたいですけどね。…この長雨だ。身体が冷えたんでしょう」

 仁吉の言葉に、佐助が素早く、羽織を着せ掛けてくれる。
 もう、抗うことすら、億劫で。
 差し出された薬を飲み下し、大人しく勧められるがまま、布団に横になった。

「温かくして、大人しくしていてくださいね」

 心配そうな言葉に、大人しく頷いて。
 本当に具合が悪くなってきているのか、感じる眩暈のまま、眼を閉じる。
 心配そうに目を見合わせる気配が、空気で分かったけれど。
 何も言わないでいると、無言で、灯りが落とされ、二人の気配が、闇に消えた。

―兄さん…―

 残された暗闇の中、想うのはたった一人。
 一人残された部屋の中では、否が応にも、考えてしまう。
 それでだけでもう、胸が苦しい。
 
「………」

 誤魔化すように、寝返りを打つ。
 それでも、思い出すのは、最近妙に、自分の事を避けるようになった松之助の、あの、戸惑うような表情。
 以前なら、何かと理由をつけて、離れに来てくれたのに。
 ぱったりと途絶えた足に、最初は、仕事が忙しいのだと、思っていた。
 けれど、仕事中も、声を掛けても、ぎこちない笑みを返すだけで。
 いつ、時間が空くかと訊ねても、曖昧に笑うだけ。
 そのうち、視線すら、合わせてくれなくなった。
 確かに一瞬、一太郎と視線が合うのに。
 戸惑うように視線を揺らしたかと思うと、顔を逸らされてしまう。
 
「―――っ」

 思い出しただけでも、胸が痛い。
 気付かぬ振りで、行過ぎて。
 横目で確かめれば、確かに、安堵したように、息を吐いた松之助に、予想が確信に変わった。
 一体何があったのか。
 自分が何かしたのかと思うけれど、そんな心当たりは無くて。
 問い詰めようにも、避けられていては、それすら叶わない。

―兄さん…―

 何より、本当に嫌われてしまったのかと思うと、怖くてそれすら、訊けなかった。
 どうすれば良いのかすら、分からなくなって。
 混乱した思考を持余すうちに、いつしか眠りに就いていた。





「若だんな、源信先生をお呼びしましょうか」

 問いかけではなく、殆ど決定事項の確認をするように、声を掛けてきた佐助に、朝餉の匙を口元に運びながら、ゆるく首を振る。
 原因は己が一番分かっているのだ。
 どうなるものでも、無い。

「しかし…」

 尚も、佐助が言い募ろうとした時。
 雨音の中、廊下を渡る足音が、響いてきて。

「若だんなっ」

 勢い良く開かれた障子に、一層、強くなった雨音。
 驚いて顔を上げると、そこにいたのは、待ちわびた人。

「兄さんっ!」

 満面に、喜色が浮かぶのが、自分でも分かる。
 掛けて来たのか、息を切らして立ち尽くす松之助に、慌てて、入るよう、勧めた。

「では、あたしは少し失礼しますよ」

 往診の以来は、また後でと、続けられた言葉に、頷いて、佐助を送り出す。
 後に残された松之助が、心配そうに、一太郎を覗き込んだ。
 けれど、何かを思い出したように。
 その顔はすぐに、伏せられる。

「大丈夫ですか?…その、旦那様から、寝付いたと聞いて…」

 それでも、一太郎を心配してくれているのは、変わらないらしく。
 掛けられた言葉には、ひどく心配そうな色が、滲む。

「うん、少し、冷えたんだろうと思うんだ。…ねえ、兄さん」

 こんなにも、心配してくれているのだから。
 嫌われては、いないのだろうと、必死に己に、言い聞かせて。
 緊張に、握りこんだ掌に、爪が食い込む。

「どうして、私を避けていたの?」

 問いかけた途端。
 びくりと、震えた肩に、やはりと、分かってはいても、胸が痛む。

「避けて、なんか…」

 揺れる視線で、逃れようとするのを、素早く阻む。

「嘘。ねえ兄さん。…私のことが、嫌いになった?」

 顔を覗きこんで問いかければ、松之助の顔が、弾かれた様に、上がる。

「そんなこと、無いっ」

 強い声音で言い切られた言葉に、内心、ひどく安堵しつつ。
 
「なら、何故…?」

 決して、声音に責める色が滲まぬよう、注意を払いながら、問いかける。
 途端に俯いてしまう、松之助の手を、ゆるく握って。
 松之助からの、言葉を待つ。
 重い沈黙が流れるのに、何か言おうかと、口を開きかけたとき。

「言ったら…」
「うん?」

 ひどく小さな声に、聞き逃さないよう、耳を寄せる。
 重ねた松之助の手は、微かに、震えていた。

「言ったら…一太郎に、嫌われる…」
「兄さんっ!」

 余りにも、予想外の言葉を吐き出した声は、ひどく、震えていて。
 思わず、きつい声音で、名前を呼べば、松之助の肩が、びくり、揺れる。

「そんなこと有り得ない。何を聞いても、私が兄さんを嫌うなんて、天地がひっくり返ったって有り得ない」

 「絶対に有り得ない」と、何度も繰り返して。
 強い口調で言い切れば、松之助の目元に、微かに、朱が走る。
 それでも尚、言いよどむのに、一太郎は心配そうに、眉根を寄せた。

「何を聞いても、絶対に嫌ったりなんかしないから。…私に悪い部分があるなら、直すよう努力するよ?」

 だから、話してくれと、促せば、ぽつりと、松之助が言葉を零す。

「一太郎が、悪いわけじゃあ、ない、よ」
「じゃあ、どうしたの?」

 決して、先を急かすようなことはせずに。
 ゆるく、松之助の手を握ったまま、言葉を待つ。

「……その…あたしが、悪いんだ」
「兄さん」

 ともすれば、その言葉だけで、逃れようとするのを、咎める様に名を呼んで、阻む。
 
「私は、不安で寝込んでしまうよ?」

 その言葉が、一等効いたのか。
 何度か躊躇うように、唇を震わせた後。
 ようやっと、松之助は、話し出した。

「…い、一太郎を、見てたら…」
「うん?」

 松之助の頬が、赤い。
 震える、重ねた手を、落ち着けるように撫でてやりながら。
 どうしたのだろうと、小首を傾げつつ、先を待つ。

「す、ごく…触れたい。と、思うように、なってしま…って」
「え………?」

 それは、どういう意味だと、目を見開く。
 急な展開に、思考が一瞬、置いていかれる。

「一太郎は、義弟、なのに…こなんなの、あ、浅ましいと、思われちまうって…考えたら…気付かれるのが、怖くなって…」

 殆ど、泣き出しそうになりながら。
 耳まで朱に染めて、話す松之助に、ただ、目を見開く。
 言葉が返って来ないのに、不安を掻き立てられたのか。 
 逃れるように、席を立とうとするのを、強く、手を引いて、阻む。

「どうしよう兄さん」
「え………?」

 まだ、羞恥に頬を朱に染めたまま。
 松之助が、怪訝そうに、眉根を寄せる。
 その眼は本当に、うっすらと涙ぐんでいて。
 ひどく悩んだ末の言葉だったのが、分かる。

「すごく、可愛い」

 吐き出された言葉が、予想外すぎたのか。
 今度は松之助の目が、見開かれる。
 その手を、更に強く引き寄せて抱きすくめて。
 抱くのは、ただただ、愛しいという思い。

「いち…」
「嬉しいよ。それだけ、私を好いていてくれたということでしょう?」

 覗き込んで訊ねれば、松之助の視線が、一瞬、気恥ずかしそうに泳いだ後。
 こくんと、小さく、頷いてくれた。
 その頬は、これ以上無い程に、朱に染まっていて。
 愛おしさに、思わず、口付けてしまうほど。

「き、嫌わない?」
「だからそう言ってるじゃない」

 まだ、不安げに訊いて来るのに、呆れた様に、言い切ってやる。
 心にあったものを、全て吐き出したからか。
 松之助が安堵したように、大きく一つ、息を吐いた。

「もっと早くに、言ってくれれば良かったのに」
 
 ちゅっと、握ったままの手に、唇を落としながら言えば、こそばゆいのか、僅かに、身体を震わせながら。
 松之助が戸惑うように、視線を揺らす。

「だ…って…」

 また、泣き出しそうなほどに、真っ赤になって俯いてしまうのに、ゆるく、苦笑して。
 その頬に、掠める様に一つ、口付けを落とす。

「じゃあ、今日は兄さんが触れたいように、触って」
「え…?」

 驚いた様に、目を見開くのに、向けるのは、笑い顔。
 寝付くほどの不安に、駆られたんだもの。
 これくらいの我侭は、許して欲しいと、思う。

「だって兄さんったら、私の言葉が信じられないみたいなんだもの」

 何より、もう二度と、松之助に、こんな不安を、与えたくは無かった。

「今夜必ず、部屋に来て。…ね?」

 上目越しに、小首を傾げれば。
 戸惑うように、眉尻を下げたけれど。
 結局、その首は、こくんと一つ、縦に揺れた。





 戸惑うように、見つめてくるのに、ゆるく、返すのは微笑。
 
「一太郎…?」

 困った様に、眉尻を下げて。
 怪訝そうに小首を傾げてくるのに、漏らすのは苦笑。
 ゆうらり、行灯の灯が、揺れる。

「言ったでしょう?…兄さんが触れたいように、触ってって」

 朝の言葉を繰り返せば、微かに、唇を噛んで。 
 俯く松之助の、その種に染まった目元を、行灯の灯が、照らす。

「兄さん?」
  
 呼びかければ、相変わらず困った様に眉尻を下げた目と、視線が合う。
 けれど、それは俯くことなく、ゆっくりと伏せられて。
 おずおずと、戸惑いがちに口付けてくるから、ゆるく、唇を開いて、招いてやる。
 戸惑いの消えない動きで、差し込まれる舌を、絡めとりながら。
 松之助からのそれに、とくり、胸が騒ぐ。
 柔らかに濡れた感触が、互いの体温を、溶かしあう。
 久しいそれは、簡単に、熱を呼び込む。
 
「い、い…?」

 躊躇いがちに、訊いてくるから。
 微笑って、頷いてやる。

「………っ」

 慣れぬ仕草で、首筋に這わされる舌に、思わず、息を詰めた。
 伺う様に、見つめてくる視線は、何処か不安げで。
 つい、笑ってしまえば、松之助もつられたように、はにかんだ笑みを、浮かべた。

「何か、どきどきするね」

 いつもと、少し違うそれに、二人、交わすのは照れ笑い。
 解けた空気に、心持が、和む。

「一太郎…」

 再び、降って来る口付けには、もう、不安げな素振りは、無くて。
 微笑って、応えながら、互いの帯を、解く。
 湿り気を帯び、うっすらと冷えた空気は、熱を持った肌に、心地良い。
 舌を絡めて、熱を溶かしあって。

「もっと…」

 離れた途端、求めてくる松之助に、内心、目を見開きつつ。
 嬉しさに、つい、口元に笑みが浮かぶ。

「ん…ぅ…」

 漏れるように、零れる吐息は、もう、どちらのものかすら、分からない。
 肌を這う指先に、息を詰める。

「ぁ…っ」

 ひどく優しい仕草で、鎖骨を辿る指先に、ぞくり、背筋がざわつく。
 なぞるように、舌を這わされて。
 知らず、松之助の首筋に、腕を回せば、視線が絡む。

「ふ…ぅ…」

 それはそのまま、口付けに変わって。
 ゆっくりと、脇腹を指で辿れば、腕の中の松之助が、ひくり、震える。

「ね、一太郎…」
「うん?」

 その首筋に、舌を這わせながら頷けば、声が響くのか、松之助が小さく、首をすくめる。

「ごめん、ね…」

 不意の言葉に、顔を上げると、すまなそうに眉尻を下げる、松之助がいて。
 小首を傾げて、何のことかと視線で訊ねれば、僅かに、俯きながら。

「避けたり、して…」

 続いた言葉に、思わず、漏らす苦笑。

「うん。すごく不安だった」
「ごめんよ…」

 あんまりにも、すまなそうに謝るから。
 つい、揶揄する様に、本当のことを言えば、泣き出しそうなほどに眉尻を下げるのに、思わず、笑ってしまう。

「ううん。もう良いよ。…私もごめんね」
「え?」

 何のことかと、小首を傾げる松之助の首筋に、軽く、口づけを落として。
 刻んだ紅い印に、指を這わせながら、その瞳を、見上げる。
 
「気付けなくて。…兄さんも、不安だったんでしょう?」

 思い出すのは今朝の、泣き出しそうな顔。
 松之助の目元に、さっと、朱が走る。
 
「あ、あたしが、悪いから…」
「また…兄さんはすぐそう言う」

 呆れた様に溜息を吐けば、困った様に見つめてくるから。
 窘めるように、その唇を、己のそれで、塞いでやる。

「仲なおり、ね」
「うん」

 互いに交わすのは、照れ笑い。
 きゅっと、手指を絡ませて。
 触れ合う肌に、溶かす体温。
 求め合うのは、互いの熱。
 それはそのまま、互いへの想いの深さを、あらわしていた。