「あ、しまった…」

 零れるように呟かれた声に、顔を上げると、屏風のぞきが顰め面で、社の外を睨みつけていた。
 開け放した妻戸の向こう。
 視線を追えば、参道に斑模様。
 此処は心地良い気に満ちているから。
 用心深い屏風のぞきも、雨の気配に気付かなかったらしい。

―まあ最も、そうなるように仕向けたのは私だけれど…―

 視線が他所へ向かぬように。
 態と話を長引かせて気を引いた。
 一度雨が降り始めてしまえば、屏風のぞきは止むまで帰れはしないから。

「どうりで此処にいるのに少し体が怠い訳だよ」

 ぼやく様に、小さく苦笑を零せば、板間に寝転がる守狐を屏風のぞきが不満そうに睨みつける。

「これじゃあ帰れないよ」
「止むまで居れば良いだろう」

 微笑を向ければ、「それはそうだけど…」と、屏風のぞきの視線が、不安そうに空を見つめる。
 不機嫌な空は、どんよりと暗く、雨はいつ止むとも知れない。
 行儀悪く板間に足を投げ出して座りながら。
 屏風のぞきが諦めたような溜息を一つ、吐いた。

「若だんなが心配するかも。あの子にとってあたしは大事な遊び仲間だからね」
「えらく殊勝なことを言うね。昔は何度止めても、夜抜け出すのを止めなかったくせに」

 揶揄する様に笑えば、屏風のぞきが声を立てて笑う。

「あの頃は外の世界全部が珍しかったもの」

 その瞳に映るのは、過去の日々。
 おたえの教育に悪いからと、夜歩くのを止めても、屏風から抜け出せるようになったばかりの屏風のぞきには外の世界全てが珍しくて。
 しょっちゅう、心配になった守狐が探しに行った。
 あの頃はまだ、雨の気配すら巧く読めなくて。
 降り出し、雨の折に閉じ込められてしまった屏風のぞきを、助け出すのはいつも守狐の役だった。

「懐かしいね」

 懐かしさに、細い目を更に細めながら呟けば、口元に同じ色の笑みを刻んだ屏風のぞきの手が、狐の名残の耳の根元を掻いてくる。
 心地良さに、ふさり、守狐の尻尾が、板間を撫でた。

「ねえ守狐。気を分けておくれよ」

 強請られ、守狐の黄金色の瞳が、ちらり、屏風のぞきを見上げる。
 事実、降りしきる雨に、身体が怠いのもあるのだろうけれど。
 これは、過去をなぞる戯れ。
 
「良いよ」

  薄く、唇に笑みを乗せて。
 上体を起こしながら、掬い上げたのは屏風のぞきの爪先。

「……っわ」

 不意に、足をとられ、体勢を崩しかけた屏風のぞきが、咄嗟に後に手を付く。
 板間を叩く、派手な音が響いた。

「な、に…」

 その、目の前で。
 薄い笑みを載せたまま、唇を寄せたのは、屏風のぞきの白い足背。
 うっすらと青白く浮き上がる血脈に、唇を這わせて。
 とくり、脈打つそれに、己の妖気を流し込む。

「―――っ」

 流れ込む妖気に、屏風のぞきが寸の間、息を詰める。
 持ち上げられ、裾から零れた白い内腿が、震えていた。
 
「何って、気を分けてくれと言ったのはお前さんじゃあないか」

 言いながら、そっと、足を離す。
 笑みを向ければ、乱れた裾もそのままに、屏風のぞきはふい、と、視線を逸らした。

「だ、だけど…こんなの…いつもと違うじゃないか」

 口篭るその、目元が赤い。
 いつもなら、手首の血脈から守狐の指先を伝って妖気が注がれるのに。
 今日のそれは、まるで口付けのような。
 情事の戯れのような。
 触れらた箇所が、熱を孕むほど。
 
「足が近かったからね」

 しゃあしゃあと笑み、あくまで「気を分けただけ」と言えば、屏風のぞきの戸惑いが、ふ、と、解ける。
 
「そうかい」
「そうだよ」

 繰り返される言葉に、屏風のぞきの目元が、安心したように、笑った。
 
「ありがとうよ」
「ああ」

 屈託無く笑うのに、内心、苦笑を零す。
 それほどまでに、心を許してくれるのは嬉しいが。
 それは完全に、色恋の範疇に、己が置かれていないことも、表していて。

―ま、良いけれど―

 最も親しい友という、今の立ち位置も、嫌いではない。
 例えば、こんな雨の日。
 屏風のぞきは必ず、己のところに逃げ込んでくるから。

―しかし今日は…お迎えが随分遅いね…―

 探しあぐねているなら、何か手がかりでも投げ寄越してやろうかと思案していた時。
 不意に、空気を揺らした気配に、顔を上げる。

「やれ、遅い御登場だこと」
「え?」

 困ったように笑う守狐に、屏風のぞきが怪訝そうに小首を傾げるから。
 指し示してやった雨の向こう。
 不機嫌そうに傘を傾ける仁吉の姿が、あった。

「帰るぞ」
「な、何だい。気色悪い」

 傘を差し出す仁吉に、屏風のぞきが僅か、たじろぐ。
 悪態をつく、その声音に、僅か、嬉しげな色が滲んでいることに、守狐は気付いていた。

「若だんなが心配してるんだよ」

 それ以外にどんな理由があるんだといわんばかりの仁吉に、屏風のぞきが不承不承、腰を上げる。

「じゃあね」
「うん」

 尾を振れば、手を振り返す屏風のぞき。
 背中で、仁吉の眼が、僅か、眇められる。

「…足が濡れる」
「…ったく」

 妻戸の前で立ち竦む屏風のぞきに、仁吉が面倒くさそうに溜息を一つ、吐いて。
 
「ぅぎゃ…!」

 間が抜けた悲鳴を上げる屏風のぞきを、小脇に抱えた。
 
「ち、近い…!地面が近いよ…!」
「煩い落とすぞ」

 流石に濡れた地面が近いのと、濡れた地面に落とされるのでは、前者を選んだ屏風のぞきが、大人しく口を噤む。
 けれど、やはり恐ろしいのか、縋るように、その右手指は仁吉の着物を握りこんでいた。

「屏風のぞき」

 その様に、ちりと、胸が妬けて。
 呼び止め、仁吉越しに振り返ったその、左手首を、掴む。
 微かに雨が吹き込む濡れ縁へと降りれば、僅か、爪先が濡れた。 
 
「気を付けてお帰り」

 脈打つ血脈に唇を寄せて。
 流し込むのは、己の妖気。

「ありがとう」

 目を見開く、仁吉を無視して。
 笑みを向ければ、返って来るのは屈託のない笑顔。
 
「うわっ!?あ、危ないじゃないか」

 唐突に、仁吉が守狐をふり払うように、屏風のぞきを担ぎなおす。
 
「どうも、世話になりましたね」

 向けられるのは、人好きのする笑み。
 叩きつけられるのは、全身が総毛立つ程の妖気。
 
「いえいえ。…では、また」

 それを、微笑一つで横へ流して。
 ふうわり、一つ、尾を振ってみせる。
 
「       」

 仁吉が持つ、傘を叩く雨音が一層強くなって。
 その声すら、掻き消したけれど。
 妖狐の耳は、はっきりと、捕らえこむ。

「では、また」

 人好きのする笑みを残して。
 踵を返す背に、一人、漏らす苦笑。

「相変わらず楽しいお人だこと」

 ふうわり、揺れる尾が、雨音を撫でていた。