ぱちり、火鉢の炭が、爆ぜる。
 障子越しに差し込む光は、柔く、温かい。
 お店に出るとごねる一太郎を、病み上がりだからと強引に寝かしつけたのがつい先程。
 目の前の布団が、午後の日差しの中で規則正しく上下するのを、佐助は満足げに眺めた。
 その口元、浮かぶのは、ひどく優しげな、微笑。
 無音の部屋に、響くのは一太郎の寝息。
 つい先日まで、熱に浮かされ、苦しげだったそれも、今は穏やかに落ち着いている。
 ふと、部屋の外に気配を感じて。
 振り返るのと、障子が音も無く開いたのはほぼ同時。

「若だんなは?」
「寝付いたよ」

 小さく、問いかけてくるから。
 同じぐらい小さく、返す。
 途端、仁吉の口元、安堵の笑みが、浮かんだ。

「お店は?」
「昼からは暇だから若だんなについてて良いと番頭さんが」
「そうかい。そりゃあ良かった」

 言いながら、己も腰を落ち着ける仁吉に、視線で問えば、暫く時間を貰ったと、返される。
 ちちゅん。
 庭で、小鳥が鳴いた。

「疲れ、た」

 ゆっくりと、目を閉じて。
 ぼそり、呟くその頭が、佐助の膝に乗る。
 思わず、佐助は眉根を寄せていた。

「身体が辛いなら薬を取って来てやろうか?」

 何気ない仕草で、髪を梳いてやりながら問いかければ、ゆるく、首を振られる。
 太腿を僅かに擦りあげられるその動きが、少しくすぐったい。

「そうじゃあないよ…。今日は女子の客が多くてね…。まったく面倒臭いったら…」

 つまり、心持が疲れたといいたいのだろう。
 思わず、声を立てて笑えば、上目越し、恨めしげに睨み付けられた。
 その瞼を、掌で覆ってやりながら、ゆるく、零すのは笑み。

「此処のところ詰めてたしねぇ。若だんなもよくお休みだ。…暫く寝なよ」
「ありがとうよ」

 仁吉の口元が、微かに、笑みを含む。
 その髪を、ゆるく、梳いてやる。
 指を通る細くしなやかな髪が、心地良かった。
 
「後で代わるから」
「はいはい」

 笑って、早く寝ろと促す。
 一度、佐助の掌を仁吉の長い睫毛が擽って。
 暫くして、聞こえてきたのは、穏やかな寝息。
 無音の部屋に響く、二つの寝息に、佐助の口元、浮かぶのは、ひどく優しい、微笑。
 
「……何処行くんだい?」

 ふと、部屋の空気が揺れた気がして。
 顔を上げれば、屏風から抜け出た市松模様が、うっとうしそうに振り返る。

「野暮する気は無いからね。守狐のとこにでも行ってくるよ」

 べっと、舌を突き出して、そのまま部屋の影へと消えてしまう市松模様。
 一瞬、佐助の目が、驚いた様に、見開かれる。
 
「何なんだ…?」

 訳が分からないと、小首を傾げるその呟きに、応える声は、無かった。
 



 ふ、と意識が浮上する。
 そこにはもう、つい先日までの、重い脱力感は無い。
 何気なく視線をやった己の布団の、その傍ら。
 一太郎は僅か、目を見開いた。
 
「……しぃ…っ」

 その気配に気付いたのか。
 顔を上げた佐助と、視線が合う。  
 小さく、笑みを含んだその口元、翳されるのは人差し指。
 その意図に、頷いて。
 視線で示すのは、佐助の膝の上。
 規則正しい寝息を刻む、仁吉。
 その表情は、ひどく穏やかで。
 口元に微かに、笑みを浮かべてさえ、いた。

『寝てるの?』

 唇の動きだけで問えば、笑みを含んだままの佐助が、小さく、頷く。
 珍しい光景に、一瞬、一太郎は驚いた様に目を見開いた後。
 小さく、笑みを零した。

『疲れてるの?』

 自分が、熱を出してしまったからかと、一瞬、不安になる。
 けれど、佐助にゆるく首を振られ、思わず、安堵の息を吐く。
 微かに、衣擦れの音がして。
 不意に、頭を、ふわり、撫でられた。
 そのまま瞼を覆われ、もう起きると、言いかければ、上から降ってくるのは、「しぃ…っ」と、窘めるような声。
 仁吉が、寝ているのだ。
 思い出し、開きかけた口を、閉じる。
 結局、諦めて身体の力を抜けば、佐助が困った様に笑うのが、空気で分かった。
 けれど、瞼を覆う掌は退く気配は無くて。
 もう、眠くないのにと、思っていたのに。
 いつの間にか、意識はふわふわと、漂い始めていた。

―だって、仁吉を起こしちゃあいけないから…―
 
 そんな言い訳を、胸で零して。
 再び、規則正しい寝息を刻みだすのに、そう時間は掛からなかった。
 二つの寝顔を見下ろす佐助の口元。
 ひどく優しい微笑が浮かんでいたのを、一太郎は知らない。