「もぅ、また私の負けだよ」
 不満げに眉根を寄せる一太郎に、向かいに座った屏風のぞきはケラケラと得意げに笑う。
 この付喪神は今日はひどく調子が良いらしい。
 一太郎はもう三局も、投了を強いられていた。
「今日はずいぶん調子がいいみたいじゃないか」
「まぁね」
 二人でじゃらじゃらと派手な音をさせながら、並べられた碁石を碁笥に戻す。
 贅沢なほどに火鉢にくべられた炭が、暖かな音を立てる。
 その時、手の中に握った白の碁石の、その滑らかな表面が、微かに濁っているのを、一太郎は見止めた。
 見ればどの碁石も、微かに汚れてきている。
「そう言えばもうしばらく碁石を洗ってないねぇ」
 その言葉に屏風のぞきはひょいと方眉を上げ、己の手の中の碁石を見やり、頷いた。
「そういえばちょいと汚れが目立つね」
 けれど言葉とは裏腹に、屏風のぞきは気に留める様子は無く、全部の碁石を碁笥に戻してしまった。
 その様子に、一太郎は苦笑を一つ零して、二つの碁笥を手に取ると、徐に立ち上がる。
「…?どうするんだい?」
「碁石を洗うんだよ」
 怪訝そうに小首を傾げて聞いてくる屏風のぞきに、一太郎はさらりと告げて、さっさと障子を開けると、
そのまま廊下から草履をつっかけ井戸へと向かう。
「お待ちよっただでさえ病み上がりなのに…っそんなことしたらまたあの二人に叱られるよっ?」 
 気色ばんだ屏風のぞきが叫んだ時だった。
 一太郎の手の中から碁笥は取り上げられ、その体はくるりと反転させられ、温かい離れへと戻されたのは。
「そうですよ若だんな」
 上から降ってくる声に、一太郎は不服そうに唇を尖らせる。
「大人しく寝てて下さい。碁石ならあたしが洗いますから」
 仁吉は強引に一太郎を布団に放り込むと、一太郎が文句を言おうと口を開く前に、さっと踵を返して行ってしまった。
「だから言ったじゃないか」
 それ見たことかとばかりに見下ろしてくる屏風のぞきの、けれど心配気な色をその眼の中に見て、
一太郎は今度こそ大人しく、布団に潜り込んだ。

「なんだい。邪魔するんなら井戸に沈めるよ」
 視界の端に映った赤い鼻緒に、視線も上げずに言うと、相手がむっと顔を顰めたのが空気で分かる。
「そんなんじゃないよ。アンタ憎まれ口以外利けないのかい」
「は・・・っお前にだけは言われたくないね」
 鼻で笑われ、屏風のぞきは黙り込む。
「…若だんなは?」
 まさか放って置いてきたんじゃないだろうなと、険を含んだ声音に、ゆるく首を振る。
「あれからすぐ寝付いたよ。…よく寝てる」 
 答える屏風のぞきの目は、優しかった。
「そうかい」
 少し、安堵の色を滲ませる仁吉の目も、優しい。
 この家の者は皆、一太郎の話をする時は、ひどく優しい顔をする。
「…」
 再び、訪れる沈黙。
 水音と、碁石同士がぶつかり合う軽い音だけが、辺りに響く。
 この寒空の下、冷水に晒された仁吉の白い手は、いつもより白く、その指先は赤くなって痛々しい。
 それを見た屏風のぞきは、つっと眉根を寄せた。
「いつも使ってるのはあたしらなのにさ…何か申し訳ないね…」
 珍しく素直な言葉が降ってきて、驚いて顔を上げると、本当にすまなそうに眉尻を下げる屏風のぞきと目が合い、
仁吉はふっと、その形の良い唇を綻ばせた。
「若だんなにさせるわけにはいかないし、お前さんは水に触れない。別に気にすることじゃないさ」
 その声はいつもの厭味さは無く、ひどく優しい。
 自分で言っておいて気恥ずかしくなった屏風のぞきは、慌てて視線を外し、曖昧に言葉を濁らせた。
 じゃりっと下駄の歯が小石を噛んで、足元で小さく音を立てる。
「―っ」
 不意に手指を押さえて顔を顰めた仁吉に、どうしたのかと視線をやると、その赤くなった指先に、
ぷくりと血の玉が浮き上がっていた。
 欠けた碁石で指を切ったのだ。
「危ないね」
 軽く舌打ちして、傷に構いもせずに己の手を傷つけた碁石を摘み捨てる仁吉の手を、思わず掴んでいた。
「何…」
 仁吉の言葉が、宙に浮いたまま、途切れる。
 自分の口腔内に広がる血の味と、掴んだ手の冷たさに、屏風のぞきは思わず顔を顰めた。
 血を吸出し、軽く傷口を舐めて唇を離すと、ニヤリと意地悪く笑う仁吉の顔がすぐ傍にあリ、思わず半歩、後退る。
「随分可愛いことをしてくれるね」
 揶揄を含んだその口調に、屏風のぞきは反射的に取ってしまった己の行動の恥ずかしさに、
さっと目元を朱に染めた。
「あ…アンタなんかに薬を使うのは勿体無いからねっ」
 大きな声で叫ぶと、さっと踵を返して足早に離れへ戻る。
 膝が震えているのは寒さの所為だと、屏風のぞきは必死に己に言い聞かせた。

「…この程度の傷で薬なんか使うもんかね」
 逃げるように去っていった背中に忍び笑を零して、仁吉はぺろりとその細い指先を舐める。
 微かに舌先が捉えたの血の味は、何故だか少し、甘かった。

 穏やかな冬の日差しが、揺れる手桶の水面を煌かせていたー。