冷たい雨が、頬を伝う。
 濡れた服が肌に張り付く感触も、鳩尾を伝う雫の不快感も、今はもうどうでも良かった。
 次から次へと目に入ってくる水滴さえ、拭いもせずにただ走り続ける。
 そのときふと、街道沿いに植えられた紫陽花が目に留まり、立ち止まった。
 己の荒い息使いと呼吸音だけが、頭の中で響く。
 目の前の紫陽花は、その鮮やかに青い花を、雨に打たれるがままにして、重たげに咲かせていた。
 その姿が、ただなすすべもなく雨に打たれているように見え、不意に沸いた苛立ちのままに殴りつけると、
ばしゃりと濡れた音をさせ、紫陽花は幾枚かの花弁を散らす。 
 己の手にもべったりと張り付いた花弁に、急に沸いてくる不快感。
 苛立ちは収まるどころか、更に増しただけだった。
「何やってんだよ」
 唐突に響いたその声に振り返ると、巧が怪訝そうに立っていた。
 巧みの持つ傘を打つ雨音が、やたらと耳につく。
 何でこんなところにいるんだと、内心で舌打ちして、けれどそれは表には出さずに、
いつもの愛想笑いを用意する。
「奇遇やねぇ姫さん。別に何もあらへんよ。ちょっと雨に打たれてセェシュンしてただけですわ」
 軽口を叩き、通り過ぎる。
 水を吸って重くなったスニーカーが、歩くたびにぐちゃりと音を立てる。
 苛立ちが、更に増していくのを感じる。
「待てよ」 
 呼び止められ、それでも愛想笑いを崩さずに振り返れば、呆れたような顔があり、また苛立った。
「何?」
「アンタ・・・いつも同じ顔で笑うよな。いい加減気色の悪い笑顔貼り付けんのやめたら?」
 その言葉に驚いたように目を見開くと、巧は「それだけ」と言って瑞垣の濡れた胸に傘を押し付けて行ってしまった。
「ちょっ姫さん傘っ!」
 遠ざかる背中に呼びかければ、「家スグそこだから貸してやる」と、振り返りもせずに言われる。
 その言葉に、自分が無意識の内に来てしまった場所に気づかされた。
 自分が無意識の内に何を求めていたかを―。
「・・・っふ」
 不意に込み上げて来た笑いに、急速に力が抜けていき、ずるずるとその場に座り込む。
 服が汚れるとか、ここまで濡れてしまえば関係ない。
 通り過ぎる人々が、不振気な眼差しを投げてきたが、構わず声を立てて笑った。
 凭れた背中の紫陽花が、ぐしゃりと潰れた音を立てたが、もう苛立つこともない。
 傘を打つ雨音が、頭上で響く。
「あーあ・・・。ホンマ姫さんにはかなわんなぁ」
 呟き、立ち上がる。

 瑞垣の上にはもう、冷たい雨は降っていなかった―。