「……」

 起きたら、守狐がいなかった。
 いつものことだし、別に何とも思っちゃいないけど。
 随分と高く昇った日はただ熱い。
 部屋の真ん中まで差し込むそれに、叩き起こされたんだ。
 白い毛皮が脳裏をよぎる。
 熱さには滅法弱いくせに。
 大丈夫だろうかとか、あたしは優しいから思ってやる。
 いつものことだから、別になんとも思っちゃいないけど。
 

 守狐は、暇そうに見えて忙しいらしい。
 おたえの部屋を出てから、やたらと荼枳尼天様の庭と、長崎屋とを行ったり来たり。
 一日で帰ってくることもあれば、一月も二月も、平気で帰ってこないときもある。
 だから、そんなのはいつものことだから、なんとも思っちゃいない。
 向こうで何をしてるのか、一度聞いたけど、良く分からない言葉を並べ立てるだけで、結局良く分からなかった。
 だから、もう聞いてない。
 
「……」

 暇だ。
 若だんなはお店に出てるし、若だんながいなけりゃあ、他の妖も遊びに来ない。  
 出かけるのも面倒くさいし、当てもない。
 守狐が消えてから、二月が過ぎようとしてた。
 盛りだった暑さも、少し和らいで。
 じっとりとうっとうしかった空気も、今は乾いて。
 夕方なんか、虫が鳴き始めた。
 朝と夜が、随分と冷え始めたもんだから、屏風から出る気もしない。
 早く帰って来い馬鹿。
 そう、守狐が消えてから、何だか苛々するのはきっと、朝と夜が寒い所為だ。
 あいつがあたしに寒い思いをさせる所為だ。
 そうだ、そうに違いない。
 だっていなくなることなんて、別にいつものことで、あたしはなにも気にしちゃあいないんだから。
 
「だから早く帰って来いってんだ…」

 目が細すぎて見えなくなって、迷ってんじゃあなかろうか。
 言ったら怒るから、言わないけど…。
 …呟いた声が存外、気弱そうに聞こえたのは、きっと気のせいだ。
 
「寝てんのかい?」

 頭の上から降ってきた声に、目を開けたら糸みたいに細い目が見下ろしてくる。
 頭がぼんやりしてるから、もしかしたら寝てたのかもしれない。

「久しいね」

 耳に届いた自分の声は、少し掠れてた。
 それには応えずに、守狐はただ微笑う。
 出て行ったときのまま、何一つ変わらない自然な微笑。
 こうやっていつも、いきなり消えて、いきなり帰ってきて、また何もなかったみたいに過ぎてくんだ。
 いつものことだから、別に気にしちゃあいないけど。
 のそりと上体を起こせば、すっと、小さな包みが差し出された。
 受け取り、視線で問えば、

「土産」

 と、笑い告げてくる。
 珍しいこともあるもんだと思いながら、がさりと開けば、ずいぶん綺麗な飴玉が一つ、転がり出てきた。
 澄んだ白の奥に、淡い紅がある。
 聞けば、神の庭の飴だとか。
 ずいぶん大層なのを持ってきたねぇ。
 口に含めば、ふわりと、優しい甘さが広がった。

「…悪くないね」

 喋る度、からころと口の中で音を立てる飴玉。
 しばらくからころやってたら、何だか横顔に視線を感じて。
 見れば、やたらと嬉しそうな顔面を下げて、守狐がこっちを見てた。

「何だい。嬉しそうだね」

 からころ。
 口の中を左から右へ、飴玉が転がる。 

「嬉しいよ。やっとお前に逢えたんだもの」

 がりり。
 思い切り、飴玉に歯を立ててしまった。
 阿呆じゃあかなろうか。
 別にいつものことだから、あたしはなんとも思っちゃいないのに。
 だから、今、顔がやたらと熱いのは、きっと残暑とかの所為だ。
 そうだ、そうに違いない。

「寂しかったんだもの」

 嗚呼、守狐が阿呆になっちまった。
 だから、可哀想だから、あたしは優しいから、微笑いながら人を抱きすくめてくる、細っこい背中を、握り締めてしまうんだ。
 阿呆になって心配だから。
 あたしは優しいから、阿呆になっちまったのに同情して、だから、こんなにも手が震えるんだ。
 絶対、寂しかったからとか、逢えて嬉しかったからとか、そんなんじゃあないんだ。
 だって、別にいつものことで、あたしはなんとも思っちゃあいないんだもの。

「愛しいよ」

 嗚呼もう、阿呆が可哀想で可哀想で涙が出てくるよ。
 人が折角心配してやってるのに、守狐と来たらやたらと優しげな笑みで人の髪なぞ梳いてくる。
 やたらと優しげな声で囁いてくる。
 嗚呼そんなのが心地良いとか、思ってしまうあたしも、阿呆が移っちまったのかもしれない。
 言いたいことは山のようにあったはずなのに、びっくりしすぎて全部吹き飛んじまった。
 あの苛々も、全部。
 
「……あたしもだよ…」

 いつの間にか飴玉は小さくなっていて、随分喋りやすかった。
 阿呆ついでだ付き合ってやる。
 あたしは本当に本当に、いつものことだから、なんとも思っちゃあいないんだけれど。