「守狐、いるかい?」

 茹だる様な暑さの中、守狐は社の影でへばっていた。
 自慢の毛皮も、今はただうっとうしいばかりで。

「いるよ」

 応える声も、力無い。
 耳を聾するほどの蝉の声が、全ての音を飲み込んで。
 
「相変わらず夏は弱いねぇ…」

 苦笑交じりの言葉と共に、ひんやりとした体温に包まれて。
 ひょいと、胡坐を掻いた膝の上に抱上げられた。
 ひんやりとした手に身体を撫でられ、心地良さに目を細める。

「で、どうしたんだい?」

 上目で問いかければ、屏風のぞきはうんざりしたように眉根を寄せた。
 その表情に、離れでまた何かあったのかと、守狐から苦笑が漏れる。

「白沢殿と喧嘩かい?」
「違うよ。あたしじゃあない。犬神の方さ」

 珍しい否定の言葉と続いた名前に、守狐は意外そうに目を見開いた。
 あの二人が喧嘩するなど、あまり聞いたことが無くて。
 そういば、最近一緒にいるのを、見かけていないなと思い出す。

「何でまた」

 ふさり、長い尾で顎を擽りながら問いかければ、くすぐったそうに眉を顰めながら、屏風のぞきは促されるまま、言葉を継いだ。

「何でも仁吉さんが寝所に結界を張らなかったんだと」
「へぇ」

 脳裏に思い出すのは、犬神の横顔。
 あまり関わったことは無いけれど、恐らくはそれはひどく彼の神経を逆撫でしたに違いなくて。
 
「それで犬神殿が怒ったと」
「そうそう。もうお陰でこっちは大変だよ。犬神が若だんなの部屋に越してくるわ、口うるさいわで」

 それで、うんざりして出てきたのだろう。
 容易に想像できる光景に、守狐から笑いが零れる。
 よほど溜まっていたのか、屏風のぞきの愚痴は止まることはなくて。
 
「仁吉さんもいつになくぴりぴりしてるしさぁ…居難いったら…」

 溜息混じりに零される愚痴に、慰めるようにぽんぽんと、前脚で頬を撫でてやる。
 さわさわと、生ぬるい風が、二人の頭上の木々を揺らす。
 守狐はひょいと、斑な木陰に染まる市松模様の腕から逃れ、社におたえが供えていった御神酒に手を伸ばす。

「まぁ飲め」

 日は随分高いけれど。
 酒でもなけりゃあ、気は沈まないだろうと、苦笑交じりに差し出せば、屏風のぞきは案の定、拒むことなく受け取って。
 二人、しばし酒を飲み交わす。
 
「あ…来た…」

 呟きに、顔を上げれば、噂の片割れが、話通り、不機嫌な顔面を下げてこちらに向かって来ていて。
 二人を見止め、微かに、その眉根を寄せた。

「屏風のぞき、お前昼間っから守狐殿にたかるんじゃないよ」
「うるさいよ」

 睨まれ、睨み返せば、鈍い音を立てて、鉄拳が叩き込まれて。
 痛みに呻く屏風のぞきを宥めながら、仁吉に向けるのは苦笑。
 こっちはかまわないと、視線で告げれば、相変わらず不機嫌そうな顔面のまま、それでも小さく礼を返してきて。

「あんまり迷惑掛けるんじゃあないよ」

 吐き捨てる様にそう言って、お店へと戻っていった。
 その背を、恨めしげに睨みながら、屏風のぞきが何事かぶつぶつと呟く。
 機嫌取りに勧めようと、御神酒徳利を手にして、その軽さに気付く。
 振れば、響くのはほんの微かな水音。
 台所にくすねに行こうにも、昼餉の片付けに、今は人の出入りが激しいだろう。
 さてどうしようかと、思案した時。
 屏風のぞきがくいと、守狐の手を引いた。
 見れば、今度は佐助の姿が。 
 やはり、すぐに二人を見止め。 
 
「屏風のぞき、お前昼間っから守狐殿にたかるんじゃないよ」

 繰り返される、全く同じ台詞に、守狐は思わず、声を立てて笑った。
 怪訝そうな表情をする佐助に、屏風のぞきはうんざりと眉を顰める。

「佐助さんさぁ…とっとと仁吉さんと仲直りしなよ…」

 溜息交じりに言葉に、佐助は一瞬、驚いたように目を見開いて。
 怒るかと思ったけれど、意外にも、その顔に浮かべられたのは困ったような笑み。

「ま、あいつ次第だねぇ。お前にも迷惑掛けるね」
「全くだよ」

 どうやら、仁吉よりは、佐助の方が余裕があるようで。
 そのことに内心、感心していれば、ひょいと、手の中の徳利を取り上げられた。

「何だい。お前もう飲んじまったのかい?」

 呆れたような声に、屏風のぞきが不服そうに唇を尖らせる。
 その様に、仕方ないねぇと呟いて、佐助は懐から幾許かの金子を、守狐に握らせた。

「すみません、これで買って下さい」
「悪いねぇ」

 苦笑すれば、やはり、苦笑で返されて。
 屏風のぞきだけが、嬉しげな笑みを浮かべた。
 その笑みに、佐助が眉を顰める。

「無駄に使い込むんじゃないよ」
「はいはい」

 最後にもう一度、守狐に頭を下げて、佐助は己の仕事へと戻っていって。

「やっぱり犬神の方が少しばかり話が分かるね」

 嬉しげに笑みを浮かべる屏風のぞきに、困ったように笑いながら、買って来いと金子を渡す。

「酒瓶は重いじゃないか。一緒に行こう」
「暑いのは敵わんよ」

 相変わらず蝉は煩く、日差しはきつい。
 力なく笑えば、屏風のぞきはまた、不服そうに唇を尖らせた。

「そんなの、人の形をすれば良いじゃないか」

 どこか拗ねた様な声音に、笑いを零して、守狐は仕方なく人形を取る。
 確かに、毛皮に覆われた狐の姿よりは、ましだけれど暑い事に変わりなく。
 けれど、こちらの都合には頓着しない屏風のぞきに、手を引かれ、立ち上る陽炎に眩暈を覚えつつ、歩き出す。

「お前、この借りは返してもらうからね」

 草履越しに、感じる熱気に、うんざりとしながら零せば、けらけらと笑い声が響く。

「今日当たり、仲直りするだろうからね。佐助が退いたらおいでな」

 珍しい誘いに、片眉を上げれば、上気した頬で機嫌よく歩いていく屏風のぞき。
 どうやら、もう既に僅かに酔っている様で。

「覚えておきなよ」

 ぼそり、呟きながら、守狐は黙って市松模様の後に、付いて行ってやる。
 行き交う人は皆、暑さにやられ、力なく。
 それでも、守狐の口の端には、屏風のぞきとは違う色の笑みが浮かんでいた―。