きゅわきゅわぎゅいぎゅい、鳴家が逃げて。
ぶにぶにとお獅子がその後を追って。
「こら、お前たち、埃が立つだろうがっ」
一太郎に茶を入れる佐助が怒鳴っても、それは一向収まらない。
仁吉が眉を吊り上げ、一太郎が苦笑した時。
「あっ」
がしゃんと、跳ね回るお獅子の後ろ足が、佐助の手の中の鉄瓶を蹴り上げて。
佐助の手から離れたそれは、宙に放り出され。
まだたっぷりと入った熱湯が、降り注ぐ先にいたのは、屏風のぞき。
唐突な事に、切れ長の目は、ただ見開かれるばかり。
危ないと、思ったときにはもう、身体は動いていて。
「仁吉っ」
皆の声が、重なる。
ばしゃりと、己の手に、熱い湯が掛かる。
それは袂までも、深く濡らして。
常の人ならば、大火傷を負うだろうけれど。
大妖の身には、熱湯も風呂の湯も、井戸の水も変わりなくて。
白い手は、赤みすら帯びてはいなかった。
「大丈夫かい?」
咄嗟に、佐助に庇われた一太郎が、その肩越しに声を掛ける。
頷きながら、ちらり、視線を投げれば、目を見開いたまま固まる屏風のぞき。
一滴も浴びてないのは、間違いないようで。
「大丈夫ですよ。…こうなるから止めろというのが分からないのかっ」
一喝すれば、隅の方で縮こまっていた鳴家もお獅子も、さっとその姿を隠し、逃げてしまう。
鋭い舌打ちを漏らせば、一層、気配は遠のいて。
これで当分は静かにしているだろうと、佐助が投げ寄越した手拭で、濡れた畳と、己の手を拭う。
「けどまぁ良かったよ。湯を被ったのが仁吉で」
苦笑交じりに、不幸中の幸いだと、言う一太郎に、佐助も苦笑しながら頷く。
あのまま屏風のぞきに被っていれば、解けて消えてしまうかもしれなかったから。
「庇うなんて、やっぱり屏風のぞきのこと、嫌いじゃあないんだね」
にこりと、笑みを向けられ、仁吉は器用に、その片眉を引き上げた。
隣で、頷く相方の笑顔が気に食わない。
否定しようかと、口を開きかけた時。
「に…仁吉さん…」
背中から掛かった声に振り返れば、戸惑う様な表情を浮かべた屏風のぞきがいて。
「あ…」
何か言い掛けようと、口を開くのに被せる様に、吊り上げるのは口角。
「ったく弱っちいんだから、ぼけぼけしてんじゃないよ」
「な…」
意地の悪い言葉は、止まることはなくて。
「大して役に立たないくせに、迷惑だけは一人前に掛けるんだから」
「仁吉…」
窘めるように、一太郎が名を呼ぶけれど。
ちらと、見下す様に視線を投げて、浮かべるのは嘲笑。
「お前なんざ屏風の中で大人しくしてりゃあ良いんだよ」
「―――っ」
乾いた音が、離れに響いた。
屏風のぞきの手にした扇子が、己の頬を打ったのだと、気付くのに、寸の間掛かる。
白い頬は、やはり、赤みすら帯びず。
皆が固まる中、屏風のぞきの声だけが、響く。
その声は少し、上擦っていて。
「それなら…そんなに気に食わないんなら、井戸にでも放り込めば良いだろうっ」
きつく、仁吉を睨上げるその顔は、泣き出しそうに、歪んでいた。
「あ…屏風のぞきっ」
勢い良く障子を開け放ち、そのまま飛び出して行ってしまう市松模様の背に、ようやっと我に返った一太郎が声を掛けたけれど。
振り返ることの無い背中は、足早に木戸の方へと消えてしまう。
「……」
仁吉は無表情のまま、立ち尽くす。
畳の上、投げ捨てられた茜ぼかしの扇子の、その派手な色は、主の手を離れた今、どこか寂しげで。
今まで泣かせたことは、幾度と無くあったけれど。
あんな表情を見せたのは初めてで。
あんな言葉を投げつけられたのも、初めてだった。
傷つけてしまったのは、間違いようもない事実。
「馬鹿が…」
佐助の呟きに振り返り、睨みつければ、一太郎からも、呆れたような溜息を吐かれ。
「…今のは仁吉が悪いよ」
「なんであたしが…」
詰られ、否定しようとした言葉は、責めるように睨み付けてくる一太郎に阻まれて。
「兎に角、きちんと謝って、連れて帰っておいで」
「はぁ?」
眉を顰めれば、無言で、開け放たれたままの障子の向こうを示される。
指されるがまま、見上げた空は今にも泣き出しそうで。
「常なら、用心深い屏風のぞきの事だもの。こんな時に絶対に出かけやしないよ」
相変わらず、声には責めるような色が滲む。
「可哀想に、傘も持たずに出て。よっぽど追い詰められてたんだねぇ」
「……」
その言葉に、思い出すのは先程の、泣き出しそうに歪んだ表情。
痛みすら感じなかった頬が、今更のようにずくりと痛む。
「雨に打たれたりしたら、解けて消えちまうよ」
「追い詰められてますからね。自分から望んで雨にあたるかも」
「そんなこと…」
「無いとは言い切れないよ。あぁ心配だねぇ…」
佐助の言葉を打ち消そうとすれば、今度は一太郎に、己の言葉を掻き消され。
心配げな溜息が、一太郎から漏れる。
「天狗に団扇で飛ばされるかもしれない。河童に川に流されるかもしれない。…ああ、私は心労で倒れるかもしれない」
どこかで聞いた台詞を上げる一太郎の、最後の言葉に、仁吉は顔を上げ、一太郎の額に手を置き、顔を覗きこむ。
その手をぱしりと払いのけられ、また、睨まれる。
「だから、早く行って謝っておいで」
見れば、佐助からも鋭い視線が飛んできていて。
大事な若だんなに、心労を掛けるなと言いたいのだろう。
きゅわきゅわと、いつの間に戻ったのか、鳴家達からも、責めるような視線が投げつけられる。
「…ったく、仕方が無いですねぇ…」
「早くお行きったらっ」
焦れたように叫ぶ一太郎の声を背に、仁吉はようやっと、離れを後にする。
その背を見送って、一太郎が呆れたような溜息を吐いた。
「全く、世話が焼けるったら…」
その呟きに、佐助が困ったように笑う。
見上げた空は先より一層、暗い雲を集めていた。
「参ったねぇ…」
とうとう泣き出した空を見上げ、屏風のぞきは誰とも無しに呟く。
勢いで飛び出しては来たけれど、当てなど無くて。
顔見知りの狐達がいる社で、雨宿りさせてもらったは良いけれど、しとしとと降り注ぐ雨は、上がる気配は一向にない。
どうにもならない状況に、舌打ちが一つ、漏れる。
「帰れないねぇ…」
帰ったところで、仁吉はきっと、怒っているに違いない。
―庇ってくれたのに…―
それを思うと、顔を合わせるのも気が重く。
いっそこのまま、雨が止まなければ良いのにとさえ、思う。
幸い、風はなく、身を寄せた濡れ縁に吹き込んでくることは無いけれど。
それでも、身に纏わりつく湿気に、力の抜ける思いがした。
「……」
濡れぬ様にと、膝を抱え込み、思い出すのは先程のこと。
自分に湯が降りかかってきた時は、間に合わないと、もう駄目だと、そう思った。
思わず、硬く目を閉じたけれど、一向、降りかかってくる気配は無くて。
恐る恐る両の目を開けば、己の代わりに、熱湯を浴びた仁吉がいた。
ありがとうと、ただ一言、礼を言おうとしただけなのに。
投げつけられたのは、己の全部を否定するような、酷い言葉と、見下した視線。
反射的に、打ってしまった頬は、赤みすら、帯びることは無くて。
それが一層、己の仁吉との力の差を、見せ付けているようで。
「……っ」
自分も悪いと、分かってはいるけれど。
悔しくて悲しくて、視界が滲む。
そんな己が一層、情けなくて。
抱え込んだ膝の上、顔を埋める。
じわり、滲んだ涙が、着物に染みた。
降り出した雨に、知らず、漏れる舌打ち。
雨が降り出した途端、通りから人影は消えて。
傘を広げながら、思い出すのは、先程の一太郎の言葉。
どこぞの軒先で、雨宿りしているだろうとは思うけれど。
それでも、この湿気では、そう長くは持たないかもしれない。
「……」
じくり、また、仁吉の頬が痛んだ。
脳裏に浮かぶのは、あの、泣き出しそうな表情と、微かに、上擦った声。
あんなにも、傷つけるとは、思っても見なかった。
そんなつもりなど、無かった。
ただ、いつもの軽口をきいたつもりでいたのだ。
「……」
けれど、それはひどく相手を傷つけたらしく。
謝って来いと、一太郎は言ったけれど。
正直、こんな風に人と向き合ったことなど無く。
どうすれば良いのか、仁吉自信、良く分かっていなかった。
迷う間にも、傘を打つ雨音は、大きくなり。
草履を、柔くなった土が汚す。
焦りが、仁吉の裡を焦がした。
「白沢様」
不意に、本性で呼ばれ、振り返れば、近くの軒先から、見覚えのある狐が顔を覗かせていて。
問えば、傘を捜しているのだという。
「傘を…?」
「はい。けどちょうど良かった。白沢様、お手数ですが、連れ帰ってもらえますか?」
先が見えぬ言葉に、小首を傾げれば、狐は濡れた屋根の向こうに見える、社の甍を指し示す。
「あそこに、長崎屋の屏風のぞきが雨に降られて、帰れなくなってるんです」
困ったように笑い告げられた言葉を聞いた途端、仁吉は駆け出していて。
時を要することなく、見えてきた境内の片隅、濡れ縁に膝を抱える市松模様を見つけた途端、思わず、唇から安堵の息が零れていた。
「屏風のぞきっ」
呼べば、びくりと、細い肩が震え。
仁吉を見上げた目が、怯えに揺れる。
「手間掛けさるんじゃないよ。帰るよ」
本当は、こんな言葉が言いたいのではなかったけれど。
口を吐いて出るのは、相変わらずの冷たい声で。
「い…嫌だっ」
強引に手首を掴めば振り払われて。
いつに無く強い抵抗に、反射的にきつく睨みつければ、負けじと睨み返してきた。
その目は、泣いていたのだろうか、少し赤く。
そこまで追い詰めていたのかと、溜息が零れた。
「さっきは悪かったよ」
言いながら、傘を差し出せば、驚いたように目を見開く屏風のぞき。
強引にその手に傘を押し付け、その目の前に、己の背を差し出す。
「ほら」
「え…?」
疑問符を浮かべる屏風のぞきに、目の前の、雨に打たれる地をしゃくる。
「足、濡れるだろうが」
負ぶってやるからさっさとしろと言えば、更に固まって。
思わず、舌打ちを漏らす。
途端、びくりと肩を震わせるのを、一太郎にする時のそれと同じように、強引に背負う。
「い…いいよそんな…っ」
「うるさい。落ちるぞ」
低く呟けば、雨の中、落とされるのは嫌なのか、屏風のぞきは大人しく身を預けてきて。
気まずい沈黙の中、傘を打つ雨音だけが、やたらと響いた。
ぱしゃりと、跳ねた泥が、仁吉の裾を汚す。
背に感じる体温に、先程までの迷いは掻き消えて。
「…さっきは言い過ぎた」
「あ…うん…」
背中で僅か、身じろぐ気配がして、また沈黙。
けれど、今度はすぐに、屏風のぞきによって破られた。
「あたしも…悪かったよ…庇ってくれたのに…」
「別にお前が気にすることじゃないだろう」
「そんなことないよ」
また、沈黙に戻るかと思ったけれど、存外、強い声が返ってきて、思わず立ち止まり、背中を振り返る。
視線が合えば、まだ気まずいのか、逸らされて。
それでも、外れぬ仁吉の視線に、屏風のぞきは口を開いた。
「う…嬉しかったよ。…ありがとう」
そう言う目元は、僅か、朱に染まっていて。
視線を逸らしたのは、照れていた所為か。
その様に、くすり、仁吉から笑いが零れる。
「やっぱり…屏風から出てきてくれてた方が、楽しくて良いねぇ」
揶揄するように笑えば、屏風のぞきが一層朱に染まった眦を吊り上げて。
「ひ…人が折角…」
言葉も、ろくに出てこない様子に、また、笑いが零れる。
「はいはい。素直なお前も可愛いよ」
「だ…黙りなよっ」
背中で暴れるのを、落とさぬように抱えなおして。
雨の音はもう、二人とも気にならなくなっていた。