立ち止まった障子の向こう、楽しげな声が響くのに、伊三郎はふっと、その目元を和らげた。

「随分楽しそうじゃないか」

 言いながら、障子を開ければ、迎えたのは笑い顔の愛娘。
 おたえがころころと鈴が鳴るように笑いながら、目の前の碁盤を指差した。

「おとっつぁん、屏風のぞきったらずるしてばかり」
「何がずるだい。勝負ってもんは勝たなきゃあ意味が無いんだよ」

 白い碁石を手の中で玩びながら、にやり、口角をあげる屏風のぞきに、漏れる苦笑。
 そんな二人には頓着しないのか、ぱちり、鋭い音を立てて打つのは、守狐。
 狐の姿では碁石が持てぬと、今は半分を人の身に化けていた。
 その白い尾が、ゆらり、ゆれる。

「ほら、早く打ちなよ」
「ん」

 促され、屏風のぞきが再び碁盤に向き直る。
 その時、不意ににやりと、守狐の口角が一瞬、吊り上がったのを見て、おたえと伊三郎は揃って顔を見合わせた。
 それに気付いたのか、守狐が悪戯を仕掛けた子供のように目だけで笑いながら、しっと、人差し指を口に当てる。
 ぱちりぱちりと、小気味良い音が、途切れたり続いたり。
 やがて、それが不意に止まった。

「……」
「投了だね」

 どこか、勝ち誇ったように笑む守狐に、納得がいかない様子で、それでも、屏風のぞきが頷いた。

「おかしいね…僅差であたしの勝ちだと思ったんだが…」

 行儀悪く膝を立てながら、碁盤を睨みつける屏風のぞき。
 そのことばに、ぴくり、守狐の狐の耳が動いた。

「途中までは…ね」

 含みのある物言いに、屏風のぞきがひょいと、器用に片眉を吊り上げる。
 もう一度碁盤に目を落とし、睨みつけるのに、おたえと伊三郎は堪え切れずに忍び笑いを漏らす。 
 その様に、ようやっとぴんときた様で。
 
「お前…っ整地で誤魔化しやがったねっ」

 いきり立つ屏風のぞきに、守狐が行儀よく正座したまま、けらけらと笑う。 

「たばかりやがって…!」
「狐だもの。それがお職だよ」

 すました顔で言われ、屏風のぞきがふくれっ面を作る。
 おたえが、ころころと笑いながら、口を開く。

「まぁまぁ…先にずるしたのは屏風のぞきじゃない。これであいこよ」

 その言葉に、一緒になって戦局を見守っていた他の狐や、訳が分からぬまま鳴家たちからまで、そうだそうだと賛同の声が上がる。
 すっかり分が悪くなってしまった屏風のぞきは、一層不機嫌そうに頬を膨らませ、子供のようにそっぽを向いてしまった。

「お前、以前はずるなんてしなかったのにねぇ…」

 その様に困ったように笑う伊三郎。
 その言葉に、おたえが父を振り仰いだ。

「おとっつぁんも、屏風のぞきと碁を打ったことがあるの?」
「あぁあるとも。ねぇ屏風のぞき?」

 話を振られ、屏風のぞきは不貞腐れた表情のまま、こくり、頷いて。

「打ったも何も、あたしに碁を教えたのは旦那じゃないか」

 白々しいと、付け足す屏風のぞきは、どうにも機嫌が悪そうで。
 あまり拗ねさせていては可哀想かと思ったか、守狐が、「今度はまともに打とう」と、もう一局申し込んだ。
 途端、皆の気はそちらに逸れて。
 じゃらり、碁石を握る音が、穏やかな昼下がりの部屋に響く。
 見守る伊三郎の目は、過去を懐かしむように、穏やかに細められて。
 記憶の糸は、ゆっくりと過去と呼ぶにはまだ日が浅い日を、手繰り寄せ始めた。



 
「旦那、暇なら一局やらないかい?」
 
 そんな誘いを背中に掛けられ、伊三郎は書き掛けの帳面を置いた。
 向き直る目に滲むのは微かな苦笑。

「暇なわけじゃあ無いんだけどねぇ…」
「でも顔はつまんなさそうだよ」

 にべも無い言葉に、一層、苦笑の色は濃くなって。
 けれど、先に古道具屋から拾ってきたばかりの、この少々生意気な付喪神との日々の会話を、楽しんでいるのもまた事実で。
 付喪神としてまだ新米らしいこの小妖は、つい先日戯れに教えてやったばかりの囲碁に、随分と凝っているらしく。
 暇つぶしにと、碁の教本を渡せば、熱心に読み。
 居間に伊三郎が姿を現す度、一局付き合えと絡んできた。

「あたしが握るよ」
「はいよ」

 じゃらり、碁石が散らばる。
 じきに、ぱちりぱちりと、小気味良い音が聞こえ始め。
 ちらり、向かいの表情を伺えば、ひどく楽しげで。
 自然、伊三郎の目元も和む。

「ん…」

 不意に、低く唸って、屏風のぞきの手が止まる。
 その眉間深く刻まれた皺に、次の一手に困っているのは明らかで。
 教えてやろうかと、手を出しかければ、「待っとくれ」と遮られる。
 その目は、いたく真剣で。
 伊三郎は、穏やかな笑みを浮かべ、待つこと暫し。

「ここかい…?」

 伺うように、白く細い指先が、石を置く。
 その視線に、向けるのは、柔らかな微笑。

「正解」

 言いながら、ぱちり、次の一手を打ち込んで。
 再び黙りこくった屏風のぞきの目は、相変わらず真剣で。
 まだ、碁を打ちながら会話を楽しむという余裕は無いらしい。
 当たり前かと、ひとりごちる伊三郎の表情は、けれど、楽しげだった。

「あーっ!また負けだっ」

 悔しげに叫びながら胡坐を掻いた膝を立てる屏風のぞきに、思わず、漏れる苦笑。
 その手に持たれた、茜ぼかしの扇子を取り上げ、碁盤を示す。

「ここ。この手で中央を補っていけば何の問題も無かったんだよ」
「どれ。…ああ確かに、そこを切られて一辺におかしくなっちまった…」
 
 ひょいと、手元を覗き込んで来る目は、悔しげで。
 拗ねるかとも思ったけれど、存外素直に、伊三郎の言葉を聞いている。
 余程、この遊びが気に入ったらしい。
 また、伊三郎の目元が和んだ。

「けど強くなってるよ。覚えが早いね」

 にこり、微笑んで、扇子を返しながら言えば、一瞬、驚いたように目を見開いて。

「あ、あぁそうかい?…ありがとうよ」

 応える声が、微かに上擦っていた。
 ふいと、そっぽを向いた、その目元が、微かに赤い。
 どうやら照れているらしいことに気付き、思わず漏らす、忍び笑い。
 
―普段は傲慢なくらい自信に満ちてる癖に…―

 どうやら面と向かって褒められるのは苦手らしい。
 くつくつと、喉の奥で押し殺した笑いが気に入らぬのか、屏風のぞきは、己の本体に引っ込んでしまった。
 その様に一層、笑いは止まらなくなり。
 震える背に、屏風の中から扇子が投げつけられたのは、それから間もない事だった。




「昔はお前も素直な碁を打ってたのにねぇ…」

 過去を懐かしむような伊三郎の言葉に、碁盤から顔を上げた屏風のぞきが、不機嫌そうに唇を尖らせる。

「いつまでも馬鹿正直に打ってたら勝てるもんも勝てやしないじゃないか」

 その言葉に、不意に、真正面に座っていた守狐が、顔を上げた。
 人のものではない真白い髪が、その動きに合わせ、さらり、流れて。
 障子から差し込む午後の日に透けたそれは、白銀の光を帯びていた。
 
「そうだね。お前、まともに打っても、そこそこ強いよ」 

 真顔で、面と向かって口にされ、一瞬、屏風のぞきが驚いたように目を見開く。

「そ…そうだろう?あ、当たり前じゃないか」

 言葉こそは、傲慢だけれど。
 裏腹に、その声は微かに上擦っていて。
 切れ長の目元に、朱が差していた。

―相変わらず、面と向かって褒められるのは苦手みたいだねぇ…―

 相変わらずな反応に、変わらぬ性分を見て、思わず、あの日の様に漏れる、忍び笑い。
 おたえが、そんな父親を、不思議そうに見上げていた―。