喉の奥を、ゆっくりと血が流れている感触。
慣れたそれは、もう何の感覚すら呼び起こさない。
ばたんと、背中で重たい音をさせ、ドアが閉まる。
「出て行ったか…」
呟いた声は、けれど音にはならず、腐った部屋の空気に溶けて消えた。
軋む体を、どうにか立ち上がらせる。
いつまでも居間の床に伸びている訳にも行かない。
全身が鈍く痛み、そして、熱を孕んでいた。
ずっと、乱暴に袖口で鼻を拭う。
べったりと薄汚れたスウェットを汚したのは、大量の血液。
しかし骨の折れている気配はなく、ほっと安堵する。
よろよろとキッチンまでどうにかこうにか体を運び、錆びた鉄の味を提供し続ける口の中の血を、シンクに吐き捨てた。
けれど口の中自体が切れているのか、それは大した意味を成さない。
ぽたぽたと、音を立てて落ちる血は、吐き出し、唾液と混じったそれよりも、はっきりと赤い。
軽く舌打ちして、もう一度鼻を拭う。
折れてはいないから、もう暫らくすれば止まるだろう。
「……」
溜息。
乱雑に散らかり、腐敗した部屋に漂う悪臭も、全部血の臭いに押し潰されて分からない。
色んな物を踏み越えて、投げ出されたそれを拾う。
足の下で、小蝿の集る惣菜のサラダが、音もなく潰れた。
ぬるりとした感触が、這い上がってくる。
それを傍に落ちていたあの男のシャツで拭き取る。
バレたら殺されるが、そんなことはもうないからどうでも良い。
「……」
もう一度、鼻を拭う。
乾きかけの袖口は、新たに濡れることはなかった。
ペタペタと健康サンダルの踵を鳴らて歩く。
通りすがる人たちが、不審げに振り返るけれど、誰一人として声を掛けてくる者は居ない。
目が合えば、皆黙って顔を伏せる。
いつだってそうだった。
慣れた光景。
自分にとって、全部がどうでもいいことだった。
頬に、引きつるような感覚がある。
血が乾いているんだろうなと、ぼんやりと思う。
慣れた感覚。
慣れた痛み。
全部全部、どうでも良い。
「……っ」
寒い。
スウェット一枚では、二月の夜は余りにも寒い。
白い息が解けて消える前に、喧騒に塗れたドアの前に立つ。
ドアが開く。
足を踏み出す。
途端、鼓膜を劈く大量の音と、タバコの臭い。
体を包む温度の高すぎる暖房。
軽く眉をひそめて、パチンコ店の通路を進む。
店員達が、胡散臭げな視線を投げつけてくる。
何事かを囁きあう。
商売柄、俺のような客の対処にもなれているのかもしれない。
早く事を済ませなければ。
焦りが、身の内を焦がす。
けれど、それは直ぐに見つかった。
思わず、安堵する。
「父さん」
肩を叩き、音に負けぬよう、大声を出す。
胸が軋む。
鼻の骨はやられていなかったが、肋骨はヒビぐらい入っているかもしれない。
俺を振り返った顔が、驚きに見開かれた。
何をそんなに驚いているんだろう。
前から知っていたんじゃないだろうか。
「あんたが大嫌いだ」
そんなに驚くことないでしょう?
「死んでくれ」
ぷつりと、掌に伝わる、何かを立つ音。
音もなく、首に吸い込まれる刃先。
俺の目の前の男が、真っ赤になって倒れこむ。
光の消えていく虚ろな眼が、俺を見つめる。
それが、俺を蹂躙しつくした俺の父親の最後の表情。
悲鳴。
怒声。
衝撃。
こうして俺は、「未成年の親殺し」の仲間入りをした―。