私物を入れた小さなカラーボックスの最上段。
 逆さを向いたマグカップが二つ。
 一つは、自分用。
 もう一つは。

「タツボンに逢いたいー…」

 力なく零した言葉は、声に下途端、一層の寂しさを、己の裡に呼び込んだ。
 水野専用となっているカップに、こつり、自分のそれをくっつけてみたりして。
 仲良く並ぶ二つのカップ。
 ただそれだけのことに、気を紛らわせている自分に気付き、一人、漏らす苦笑。

「どこの乙女ちゃんやねん」

 余りにも子供じみた行為。
 どさり、倒れこんだベッドの枕元。
 指先に触れたのは、放り出したままの、ケータイ。
 ぱかり、ぱかり。
 何気なく、手にしたケータイを閉じたり開いたり。
 着信履歴の一番上にあるのは、『サル』。
 発信履歴の一番上にあるのは、『タツボン』。
 何だかそれが、ひどく悔しく思えて。
 着信履歴の一番上が『タツボン』になるまで、履歴を消去し続けた。
 随分と親指を動かして。
 ようやっと、着信履歴と、発信履歴の最上部の名前が、一致する。
 間の開いた日付については、悲しい心地になるから、この際、無視。

「あー…俺めっちゃ乙女ちゃんやがな…」

 自分でも呆れて、もう苦笑すら、出ない。
 己に、こんな様を晒させるのは、ただ一人しか、いない。
 突っ伏したベッドの上。
 どうせ待ち望む人からの着信では、鳴らないケータイを放り投げる。
 ぱふんと、軽い音を立てて、布団の上に沈むケータイ。
 偶に、暇な時間が出来るといつもこれだ。 
 逢いたい。逢えない距離が、もどかしい。
 こんなことなら、それこそ、直樹でも誘って出かければよかったと、軽く、抱くのは後悔。
 窓から差し込む、秋の日差しが心地良くて。
 ふうわりと、意識が宙に浮く。
 うつらうつらとした意識の中。
 思い出すのは、いつだって紅茶色の瞳。
 
「―――っ!」

 不意に、無音の部屋に鳴り響いた着信音に、身を起こす。
 耳に馴染んだその音は、彼の人専用のそれ。
 慌てて、シーツに沈んだ通信機器を、掬い上げる。

『よう』

 耳に響くのは、待ち望んだ、愛しい声。
 とくり、胸が騒ぐのを、押さえるように、深呼吸なんぞを、一つ。

「どないしたん。珍しいやん」

 揶揄するように、笑ってみたりして。
 必死に平静さを装っている自分が、可笑しい。
 ついさっきまで、あれほどまでに逢いたくて逢いたくて。
 寂しさに子供じみた行動を繰り返していたというのに。
 
『うん…。お前、今暇?』

 外に、出ているのだろう。
 雑音交じりの声を、聞き逃さないよう、空いた耳を、片手で塞ぐ。

「え?今?」
『うん』

 どこか駅にいるのだろうか。
 人のざわめきの向こうに、無機質なアナウンスが、響いている。
 
「暇やけど…」

 言いかけた、その受話器の向こう。
 響いたアナウンスに、目を見開く。
 ケータイを持つ手に、きゅっと、力が篭った。

『じゃあ、来いよ』

 そんなシゲの様子が、伝わったのか。
 耳に響くのは、笑みを含んだ、声。
 全く、敵わないと、思わず、笑ってしまう。

「えぇよ。…京都駅やろ?二階中央出口で待っといて」

 言いながらもう、上着を引っ掴んでいた。
 部屋のドアを押し開こうとして、立ち止まる。
 私物を入れたカラーボックスの最上段。
 右端に置かれた小さな鏡を、覗き込んで、手早く、軽く乱れた髪を、直す。
 
「よし…」

 誰にとも無く、呟いて。
 今度は立ち止まることなく、ドアを開く。
 ひどく嬉しそうに、出て行く背中を、私物を入れた小さなカラーボックスの最上段。
 逆さを向いたマグカップが二つ。
 仲良く並んで、見送った。