「お前傷んでんなー…」
何気なく、シゲの髪を弄びながら零せば、ひどくうっとうしげな顔をされ、思わず、苦笑を漏らす。
「それ最近タツボンにもよう言われんねん…」
「そんなに傷んどるかなー」と、自らの毛先を摘みながら眉根を寄せる様に、声を立てて笑う。
どうやら、気にしているのは事実らしい。
指先で軋む髪に、そう言えば、と、昔何処かの女に聞いた事を思い出す。
「豚毛のブラシとか、静電気が起きなくて良いらしいぞ」
「は?静電気とか髪に関係あんの?」
聞かれれば、松下も、詳しくは知らない。としか返しようが無い。
トリートメント云々も、聞いたことがあるような気がしたが、聞き慣れないカタカナ等、すぐに頭から消えてしまった。
「てか、豚に毛なんて生えてんの?」
「……は?」
思わず、聞き返していた。
不思議そうに小首を傾げるシゲに、煙草を取り落としそうになる。
「生えてるだろ。てか、生えてなかったら気持ち悪いだろ」
「やって、豚って肌色やん」
溜息混じりに言えば、不服そうに唇を尖らせる。
本気で知らないのかと、僅か、目を見開いた。
「お前、豚見たこと無いのか」
「無いよ。スーパーにおるんはもう肉になってるしなぁ」
確かに、犬や猫みたく、そこらじゅうにいる動物ではないが。
最近の子どもは自然離れが激しいとは聞いていたが。
正に目の前にあるそれに、驚かずにはいられない。
「…お前、鶏が何本足か知ってるか?」
「?二本やろ?」
「馬鹿にしとんのか」と続く言葉に、安堵する。
どうやら、鳥は四本足だとか、鮭は切り身で泳いでいる。とまでは行ってないらしい。
それでも。
『豚に毛は無い』は、十二分に重症だと、松下は思う。
「おっさん…?」
怪訝そうな声には応えずに。
思案すること、暫し。
「行くぞ」
「どこへ」
やおら立ち上がった松下に、シゲが驚いたような声を上げた。
「動物園」
「はぁ?」
頓狂な声を上げるのには構わずに。
炬燵から出たくないと、ごねるのは聞き流して、強引に腕を取って立ち上がらせた。
「だぁれもおりませんやん」
シゲの声に、園内を見回せば、小さな子を連れた家族連れが2〜3組、ぱらぱらといるだけで。
確かに、園内は閑散としていた。
檻の中の動物達も、寒そうに身を丸めているのが目立つ。
真冬の、特に目玉となる動物もいない、小規模な動物園は、あまり人気が無いらしい。
鼻腔を突く、所謂、『動物園の匂い』に、懐かしい感覚がした。
「こんな事だから、豚の毛の有無も知らない子どもができるんだ」
呟けば、シゲが不服そうに唇を尖らせる。
「あ、ゾウや」
呟いた視線の先、のんびりと、設けられた運動場を歩く、ゾウ。
柵の横に立てられた看板によると、アフリカゾウらしい。
錆びた手すりにもたれかかれば、ひんやりと冷たい。
体温を奪うそれに、隣を見れば、シゲは袖口に手を隠しこんで、凭れ掛っていた。
「ほら、ゾウだって毛が生えてるだろう」
「あーハイハイそうですねー」
やる気無く応えるシゲは、けれど、どこか楽しそうで。
それを見止めた松下の口の端にも、笑みが乗る。
名前も知らない、異国の鳥が、背後の檻で、甲高く鳴く。
「でかいなー」
感心したように零れたそれは、本当に純粋な言葉で。
思わず、笑ってしまった。
「何」
「いや…なんでもない」
幼い子どものようで可愛いと、言えばきっと、ひどく嫌そうに顔を顰められるのだろう。
ゾウに、カバに、ライオン。
定番の、だけど、不断は決して目にすることの無い『動物園の動物』たちに、シゲは一々、純粋な賞賛を投げかけた。
「キリンの舌って紫やってんな」
「ああ。キリンは鳩も食うらしいぞ」
「嘘やんっ?」
実際は、極々稀な事らしいけれど。
予想通り、目を見開いて驚くシゲに、気付かれぬよう、笑みを零す。
「お前怖いなー」
言葉を掛けられたキリンは、一向に構わず、長い長い首を伸ばしながら、木の葉を食んでいた。
「あ、ブタ」
シゲの言葉に、振り返れば、『ふれあい広場』と、掠れたペンキでかかれた、柵の低い獣舎があった。
相変わらず、ふれあう人の姿は見られなかったけれど。
ブタやアヒル、ウサギが、地面にまかれた餌を食んでいた。
「あれを見に来たんだ。あれを」
「えー」
まだ、キリンに未練があったようだけれど。
強引に引き摺ってブタとの対面を果たさせる。
「入れるん?コレ」
「あぁ」
膝ほどの高さしかない、小さなフェンスで出来た門を開いて、中に入れば、足元にウサギが擦り寄ってくる。
ふと、隣を見れば餌の販売機。
どうやら、動物に餌をやれるサービスらしい。
ふと、小学校の、ウサギ小屋を思い出す。
300円という、高いのか安いのか、良く分からない金額を払い、固形フードを購入すれば、途端、アヒルやブタが、わらわらと集まってくる。
「おっさんモテるなー」
揶揄するように笑うシゲ。
その後で、飼育係のお姉さんが、苦笑していた。
男二人で、小動物に囲まれて。
あまり気色の良い光景ではないだろうなと、ぼんやりと思う。
「お前もやれ」
「いや、俺は…」
強引に、餌の袋を渡そうとしたとき。
「抱っこしてみます?」
可愛らしい仔ブタを抱きかかえたお姉さんが、笑顔で勧めてくれた。
鼻先に泥を付けた仔ブタが、シゲを見上げる。
うすいピンク色の小さな身体が、小刻みに震えていた。
「下から支えるように抱っこしてあげて下さい」
そんな言葉と共に、小さな薄ピンクが、お姉さんの腕から、シゲの腕へ。
慣れているのか、仔ブタは大人しく、シゲの腕に収まった。
「うわーお前あったかいなぁ」
シゲの声に、お姉さんが笑う。
元から、そういう造りなんだろうけれど。
仔ブタの少し上がった口角が、笑っているように見えた。
「ほら、毛生えてるだろ」
「あーハイハイ」
そっと、撫でれば仔ブタが鼻先を擦り付けてくる。
泥が、掌を汚したけれど、気にならなくて。
少し固めの、短い毛を、二人、撫でる。
しばらく、仔ブタに構った後、お姉さんにお礼を言って、小さな門を、出る。
仔ブタはもう、群れの中に混じってしまって、どれだったか、分からなくなっていた。
「帰るか」
「そやね」
気付けば、もう空は茜色に染まり始めていて。
身を包む気温も、急速に低くなり始めていた。
「今日さぁ」
「ん?」
俯き加減で歩きながら、喋り難いのか、マフラーを少し下げて。
茜色の夕日の色が、そのまま、傷んだ髪に、映る。
傷んでいる癖に、それは妙に、綺麗だった。
「何や楽しかったわ」
夕闇の中、シゲが笑う。
その動きに、金色の上で、茜色が、微かに揺れた。
「そうか。それは…良かったな」
「うん」
応える松下の瞳に浮かぶ、ひどく優しい色に、茜色の夕日が滲んでいた―。