昼休みの廊下。
 違うクラスで、やけど、よお話しかけてくる女の子に、呼び止められた。
 何でも、タツボンに渡して欲しい資料があるんやとか。
 やったら同じクラスなんやから、自分で渡せばええのにと告げれば、快活な彼女にしては珍しく頬なぞ染めて、視線を逸らしながら、

「だって水野君って、なんか…」

 『空気が違う』と、彼女は言った。
 その時は、「アホちゃうか」と、思ったし、多分自分のことだから口にもしていたように思う。
 やけど。

「………」

 無意識に、吐き出した息が白い。
 まだ十月やっていうのに。
 こんなにも、朝は冬に近い。
 そんな、珍しく早くに起きて、珍しく朝練なんぞに参加してみたろうと思ってやって来た、グラウンド。
 早く来すぎたのか、部員はまだ誰もおらん。
 アイツ以外。
 
『空気が違う』

 今なら、あの女の子の言葉に、共感できる気がした。
 黄金色の朝の光の中で。
 リフティングに励む影が、正確なリズムを刻んで、揺れる。
 ボールを弾く、独特の音が、無人のグラウンドに、響いていた。
 逆光で、姿はほとんど、影に塗りつぶされとるのに。
 その輪郭は、降り注ぐ黄金色に、輝いて。
 正確なリズムに、一拍遅れて揺れる髪に、日の光が透けていて。
 時折、ボールを追いかける眼が、朝の光に、光った。
 夕日とは反対方向に、グラウンドに伸びる影が、揺れる。
 白い吐息すら、朝の光を、映し出していた。
 その姿は、他の全てを圧倒していて。
 何故だか、ずっと昔、オカンに半ば強引に連れて行かれた美術館で見た、一枚の絵画を、思い出させた。
 題名も、作者も、忘れてもた。というよりむしろ、初めから知らんかったんかもしれん。
 とにかく。
 誰より何より、綺麗やと思った。
 誰より何より、綺麗やと、思う。
『空気が違う』
 正にその通り。
 まるでそのまま、黄金色の光の中に、溶けて消えていってしまうんやないかと思うほど。

「………」
  
 立ちすくんでいた校門の影から、一歩、踏み出す。
 グラウンドの光が、眩しい。
 
「シゲっ!?何だよ珍し…」

 近づいたら、逆光の中から、はっきりとした姿が、浮かび上がる。
 俺が絵画の中に入り込んだんか、タツボンが抜け出てきたんか。
 どっちにしても、何だか少し、ほっとした自分が、可笑しい。
 頬は、寒さに白いのに。
 一体いつから此処におるんやろう。
 上気した目元が、一層朱くて。
 少し上がった息が、黄金色に溶け消える。
 やっぱり、空気が違うんかなとか、思う。

「痛ったぁっ!」

 驚いた様に目を見開いたままのタツボンの腕を引っ掴んで、抱きすくめたら、思い切りどつかれた。

「何すんだよ馬鹿ッ!」

 ああもうまた目元朱こなっとるがな。
 怒鳴られて、おまけに結構な力で左フック入れられたけど、それでも。
 ぎゅう、と、力を込める腕の中。 
 ちゃんとおる、当たり前やけど、ちゃんとおる存在に、俺は何や知らんけど、物凄く嬉しかった。

「ええやん。たまには」
「何しに来たんだよお前」
 
 笑えば、呆れた様に零されてしまうけど。
 それでもやっぱり、嬉しかった。
 今はもう、すっかり陽は昇って、黄金色も掻き消えた。
 ちらほら、他の部員も来たみたいやし。
 
「じゃ、俺授業まで寝るわ」
「ほんっと何しにきたんだよ」

 睨み付けてくるのに、軽く手を振って。
 まだ誰もいない校舎へと、向かう。
 今日はあの女の子に、教えたろ。
 『空気が違う』んやなくて。
 『空気が綺麗』なんやって。

 たまぁにやったら、早起きして朝練、来たってもええかなとか、思ってしまった。