「何だ。またサボりか」
唐突に響いた声に、びくり、肩を震わせて振り返る。
容赦なく降り注ぐ夏の日差しに、眩しそうに顔を顰めながら。
左手で庇を作った水野が、立っていた。
「何やタツボンか。…驚かしなや」
安堵の息をついて。
もう一度、コンクリートの壁に背中を預ける。
日陰からはみ出した上靴の爪先が、暑い。
「暑いな」
呟きながら、己の隣に腰を下ろす水野にシゲは意外そうに片眉を引き上げた。
「何?サボり?」
訊ねながら、先ほどの水野と同じ言葉を口にしているのに気付く。
けれど、水野は眩しそうに空を見上げ、気にした風も無い。
「頭が痛いので保健室に行ってきます」
平然と、表情一つ変えずに言うのに、思わず、笑ってしまう。
きっと教師は、疑いも無く、この嫌味な優等生を送り出したに違いない。
「何?タツボンの保健室って屋上?」
「うん」
あっさりと頷く、そのこめかみを、汗が流れる。
コンクリートの地面の向こう、ゆらり、陽炎が揺れていた。
「教室ってさ、暑いじゃん」
「暑いなぁ」
特に、シゲのクラスはこの時間、風が吹き込むことが無い。
コンクリートからの照り返しがあったとしても、風が前髪を揺らす此処のほうが、幾分増しに思えたから、シゲは此処に逃げてきたのだ。
「風、吹かねぇし。…窓見てたらさ、『あ、もっと広いのが見たいな』って思って」
だから、此処にきたのだと、水野は言う。
「もっと広いのって?」
風が吹き込まないのは、何処の教室も同じらしい。
机の、湿った木目を思い出しながら問いかければ、水野の細く白い指が、真っ直ぐに空を指す。
その指先の向こうには、嫌味なほどに晴れ渡った青空に、何処までも白い入道雲が、まるで絵に描いたように、聳えていた。
なるほど確かに、此処は空が広い。
「なぁタツボン。俺コーラ飲みたい」
唐突な言葉に、水野が片眉を引き上げながら、シゲを見遣る。
シゲのシャツの下を、汗が伝った。
「買ってくれば?」
「いやや。行こうや」
袖口で、こめかみを伝う汗を拭いながら、水野の手を取れば、面倒くさそうに眉を顰められる。
「暑い」
「半分やるから」
その言葉に、逡巡するように瞳を伏せる水野に、「チャリは俺が漕ぐから」と、畳み掛けて、ようやっと、首を縦に振らせることに成功した。
「帰りも?」
「こがして下さい」
カンカンと、滑り止めの金属を鳴らしながら、階段を降りる。
冗談めかして言えば、水野がようやっと乗り気になったのか、埃の積もった階段を、シゲを追い越して、降りて行く。
ひんやりとしたコンクリートの壁に身を滑らせながら、のろのろと降りていけば、早くと急かされ、苦笑する。
「待ってや」
「早くしないと授業終わって先生に見つかるぞ」
なるほどそれは困ると、シゲも慌てて、水野の後を追った。
「お前チャリ通だっけ?」
「いや?」
しれりと言いながら、田中某の自転車を、互いに絡み合った自転車の群れから引き抜くシゲに、水野は呆れたような視線を投げた。
「放課後までに返したらええやろ」
がしゃんと、少々乱暴に、目の前に引き出された自転車に、水野はやや申し訳なく思いがなら、それでも、ちゃっかりと荷台に跨る。
「ほな行きましょか」
ぐっと、シゲがペダルを踏み込んで。
一瞬、大きく揺れた後、自転車は走り出した。
「アイスも食いたい」
「はいはい」
「ほな、コンビニやな」と、学校から一番近い自販機の前を、素通りして。
自転車は角を曲がる。
アスファルトから立ち上る陽炎も、伝わる熱も。
真上から降り注ぐ日差しも全て、容赦なく暑いけれど。
シャツの中を通り抜ける風は、肌に心地良かった。
「がんばれがんばれ」
揶揄するように、シゲの、風を孕んだ背中を叩けば、変わりに少し上がった呼吸音が返ってきて、思わず、声を立てて笑ってしまう。
「いっ…て!」
がたんと、大きく揺れたと思ったら。
ステンレスの荷台に、強く尻の骨を打ちつけ、思わず、痛みに呻く。
目の前で、吹き出す様に笑う気配がして。
今の段差を、態と通ったのだと、知る。
「痛いだろ馬鹿っ!」
「ごめーんね」
悪びれなく言うのに、背中から思い切り、背筋に拳を叩き込めば、自転車は大きく、バランスを崩して。
「「うわっ!」」
二人揃って、悲鳴を上げる羽目になってしまった。
「危ないやん!」
「お前が先にやったんだろ!」
「あーもう素直にごめんねって言えんかぁ?ほら、着いたで」
お互い、天性のボディバランスが働いたのか。
どうにか、水野の膝が地面を擦る寸前で、自転車はコンビニに滑り込んだ。
「はぁ、涼し」
「…確かに」
自動ドアを潜った途端、身を包む冷気が心地良い。
やる気の無い店員の声に迎えられながら。
シゲは奥のドリンクコーナーに。
水野は、手前のアイスボックスを覗き込む。
「おごり?」
「俺ジリ貧なんやけど」
情けなく眉尻を下げるシゲに、まぁ運転手をやってもらったわけだし。と、アイスを二つ手にとって、レジへと並ぶ。
「マジで?おごってくれんの?やったぁ」
「大声出すなよ恥ずかしい」
言いながら、会計を済ませて。
二人並んで、店を出る。
自動ドアをくぐった途端、身を包む熱気に、思わず息を詰めた。
「あっついなぁ…」
憎らしいほど青い空を見上げながら、シゲが呟く。
その、反った首筋を、汗が流れた。
「食おうぜ」
買ったばかりのアイスを差し出せば、シゲが嬉しそうに笑いながら、拝むような仕草で押し戴く。
「心して食えよ」なんて言いながら。
駐車場の車止めに腰かけて、二人、アイスキャンデーに齧りついた。
口腔内に広がる、痛いほどに冷えた温度が堪らない。
「ひまわりも項垂れてるわ」
言われて、視線を上げれば、アスファルトから立ち上る陽炎の向こう。
コンビニの目の前に立ったバス停のすぐ傍に、一本だけ、背の高いヒマワリが咲いていた。
黄金色のその花も、強すぎる日差しのためか、項垂れている。
じじっと、鈍い音を立てて蝉が飛んできたかと思ったら。
木とはほど遠いであろう、電信柱にとまって、喧しく鳴き始めた。
「アカン、よけ暑いわ」
その、蝉の声に、うんざりと眉を顰めながら、項垂れるシゲに、水野は声をたてて笑う。
外にいるせいだろう、いつもよりも溶けるのが早いアイスは、小さな木の支柱から、水野の指先へと、滴を落とす。
「あ…」
「はよ食わんからやで」
隣で、もうすっかり食べ終わったアイスの棒を、行儀悪く咥えながら。
シゲが、揶揄するように笑うのを、軽く睨みつけながら。
指先から拳底へと伝う滴に、舌を這わせて、舐め取る。
掌に触れた、己の舌先が、ひどく冷たくて、なんだか心地良かった。
「ほな行こか」
それが、何故だかひどく艶めかしく見えてしまったシゲは、誤魔化すように、慌てて視線をそらして、立ち上がる。
自転車をこぐから、持っていてくれと、コーラを渡された水野も、食べ終わったアイスのごみを、きちんとゴミ箱に放り込んでから、それに続いた。
「行くで」
「ん」
ぐっと、シゲがペダルを踏み込んで。
一度、大きく揺れた自転車は、アスファルトから立ち上る陽炎に向かって、走り出す。
項垂れたヒマワリが、二人を見送った。
「サドルあっつ!」
ほとんど悲鳴のような声を上げるシゲに、水野が声をたてて笑う。
日向に置いたのは失敗だったっと、本気で悔むシゲを慰めるように、ふたを開けたコーラの赤いペットボトルを、差し出してやった。
「飲めるか?」
「ん」
片手を離した一瞬、ぐらついただけで。
まっすぐに走る自転車に、やはり、バランス感覚がいいなと、感心する。
「俺こぐの上手いわ」
「自分で言うなよ」
呆れたように言えば、水野にペットボトルを返す、その横顔が、にやりと、笑みを浮かべて。
警戒するように、水野が眉を顰めた途端。
シゲがぐっと、足に力を込めた。
「うわっ!」
不意に、立ち上がってこぎ始めたものだから。
安定感を失った自転車が、大きく揺れる。
その上、スピードは増して。
「やめろって!シゲ!」
怒鳴っても、返ってくるのは、笑い声だけ。
ひとつ、ペダルを踏み込むたび、自転車は揺れる。
けれどそれも、繰り返されるうちに、体はうまくバランスをとることを覚え始めて。
いつの間にか、水野の顔にも、笑みが浮かんでいた。
強く、髪を嬲る風が、心地よい。
シゲのシャツも、水野のシャツも、大きく、風をはらんだ。
カーブを曲がった途端、後輪がやや大きく滑って。
「あっ!」
水野の手の中のペットボトルから、結構な量のコーラが、零れた。
熱したアスファルトに散らばったそれは、逃げ水となって、すぐに乾いていく。
「馬鹿!コーラ零れたぞ!」
「うっそ!?」
シゲが振り返った時にはもう、濡れたアスファルトはずいぶんと遠ざかっていて。
代わりに、学校の駐輪場が、近づいていた。
「あーあ…もったいな」
がしゃんと、自転車の群れに、やや乱暴に田中某の自転車を戻しながら。
汗で張り付いた前髪をかき上げて。
手の中の、ずいぶん中身が減ってしまったペットボトルを、心底残念そうに見つめるシゲ。
「お前が無茶するからだろ」
それが、何故だかひどく、可笑しくて。
笑いながら言えば、シゲも、つられたように笑ったから。
二人、校庭の木々に止まる、蝉に負けないほど、声をたてて笑い合った。
「ヒマワリ、ここも項垂れてんなぁ」
「え?あぁほんとだ」
ようっやっと、笑いが収まった時。
何気なく、視線をやったのは、花壇に植えられた、何本ものヒマワリ。
水野よりも、シゲよりも、ずっと背の高いそれは、やはり、俯いてこちらを見つめていた。
「暑いからな」
呟けば、また、こめかみを汗が伝う。
ぐっと、シャツの袖で拭う。
蝉が、耳を劈くほどに鳴いていた。
顔を上げれば、シゲと、視線が絡む。
「………」
不意に、沈黙が訪れて。
絡んだ視線はそのままに、どちらともなく、顔を近づける。
そこに、互いの熱を、読み取ったから。
「………」
唇が触れる寸前、シゲの吐息を感じて。
水野はそっと、その長い睫毛を、伏せた。
一瞬、触れ合った唇は、すぐに離れたのに。
何故だか、体温が一度、上がった気がした。
「夏やな」
俯いて、こちらを見つめるヒマワリを、眩しそうに顔をしかめて見上げながら、シゲが呟く。
その目元が、少し上気しているのは、自転車をこいだ所為だけでは、ないはずだと、水野は思う。
ヒマワリの花は、項垂れているくせに、どこまでも鮮やかな黄金色で。
蝉が、うるさいほどに鳴いていた。