本当に綺麗な黒髪なんだなと、ぼんやりと思った。
 きゅっと、ほんの少し目元にかかる、自身の前髪を掴みあげて、窓から差し込む陽光にさらせば、それは簡単に琥珀色に、染まる。
 羨ましい、とまでは思わないけれど。
 目の前で文庫本を読む郭の黒髪は、自分の紅茶色のそれよりも、綺麗だと思った。
 はらり、頁を捲る乾いた音がして。
 ほんの少し、俯いた郭の動きにあわせて、微かに、髪が流れる。
 白い肌に、良く映えて、綺麗だなと、また、思った。
 自分の、細く柔らかな髪と違い、真っ直ぐな黒髪は、細いけれど、しなやかそうで。
 触ってみたいな、と、思わせるには十分。
 
「何?」

 と、不意に顔を上げた郭と、まともに視線がぶつかり、面食らう。
 
「え、あ…ごめん」

 少し、うろたえる自分は、随分と間が抜けた面を晒しているに違いない。
 無意味に、宙に放った言葉に、急に、気恥ずかしくなって、慌てて、視線を反らす。

「何で謝るの?」
「え…」

 ぱたん、文庫本を閉じた郭に、覗き込まれて、視線が泳ぐ。 
 髪に見惚れてたなんて、男相手に、言えるわけがない。

「あれだけ熱心に見られてたら、普通気付くよ?」

 揶揄する様に、黒曜の瞳が、笑う。
 かっと、目元が熱くなるのが、己で分かった。

「見てないっ」

 反射的に、吐いてしまったのは嘘。
 郭の眼が、一層愉しそうに、笑った。
 
「嘘、見てたでしょ」
「見てないって言ってるだろ?」
「俺は見てるよ」
「…え…?」

 唐突な言葉に、目を見開く。
 小首を傾げれば、微笑を浮かべた唇に、瞼に口付けられた。

「見てるよ。水野のこと、ずっと見てる」

 気付かなかった?と問われ、戸惑いながら頷けば、小さく、笑われた。
 くるり。座る椅子を半回転させて、白く細い指が、手にしたままの文庫本を、ベッドサイドのローテーブルに、置く。
 ついでに、己が借りていた本も取り上げられたが、どうせあまり真剣に読んでいなかったから、気にならない。
 
「何で?」
「好きな人のこと、目で追いかけるのは当たり前でしょ」

 隣に腰を下ろす郭に問いかければ、いつも通りの、取り澄ました横顔は、事も無げに言うから、思わず、頬が熱くなる。
 
「本当に気付いてない?」

 小首を傾げて問いかけてくるから、こくんと、また、頷く。
 一体いつ、そんなに見ているというのだろう。

「無意識に目が追っちゃってるんだけどね」
 
 言って、軽く、苦笑する郭。
 さっきの、自分と同じだと、水野は思った。

「水野の髪って、すごく綺麗なんだよね。陽に透けたりすると、金色に見える」

 不意に、伸びてきた指先に、ふわり、髪を梳かれ、とくり、胸がざわつく。
 
「藤村みたいな、人工的な色じゃなくてさ。自然な色だから、すごく綺麗」
「そ、んなの…郭の黒い髪も、綺麗、だぞ」

 真顔で、賞賛の言葉を投げられ続けるのに、堪えきれなくなって口にすれば、一瞬、郭の目が驚いた様に見開かれた後、ふわり、微笑った。

「ありがとう。水野に言われると嬉しいね」
「…どういう意味だよ」

 不機嫌さを装って、ふいと、顔を逸らす。
 頬が熱くて、仕方なかった。

「綺麗な人に褒められるのは嬉しいってことだよ。…後は…」

 ぎしり、二人、並んで腰掛けたベッドが、軋む。
 顔を上げれば、随分近い距離に、郭の顔が合って、驚く。
 その目が、揶揄する様に、笑った。

「やっぱり水野も、俺のこと見てくれてたんだって、思うと嬉しいじゃない」
「―――っ」

 かっと、一息に頬が朱くなるのが、己でも分かった。
 
「見てないって言ってるだろっ?」

 怒鳴れば、くつくつと忍び笑いを漏らしながら、「じゃあそういう事にしておこうか」なんて言うのが憎らしい。
 蹴落としてやろうかと、思っていたとき、不意に、再び伸びてきた指先に、首筋をなぞられ、身を竦ませる。

「本当にね、俺はずっと見てるよ」
「わか、ったから…っ」

 近すぎる距離から、どうにか逃れようと、身を捩るけれど。
 いつの間にか、壁際に追い詰められていて、それも叶わない。

「前も言ったけど、水野は色が白いからね。汗かいたりすると、特に首とか、すぐ赤くなるんだよ」
「そんなこと、知らない」
「自分じゃ気付いてない?じゃあ…」

 言いながら、首筋を辿る指先が、項へと滑る。
 触れるか、触れないかの、ひどく微妙なその動きに、全身が総毛だった。

「練習終わった後に、いつも此処に、汗で少し、後髪が張り付いちゃうのは?」
「それは知ってる。…って、もういい加減にしろよっ」

 睨みつけ、引き剥がそうと肩口を押すけれど、郭は一向、意に介す様子が、ない。

「うん、いつもうっとうしそうに掻き揚げてるもんね」

 笑い顔と一緒に、ようやっと、離れた指先に、ほっと、安堵する。
 いつの間にか詰めていた息を、軽く吐き出した時。
 不意に、腕を引かれて、バランスを崩した身体は、前につんのめる。

「おいっ!」

 抱きとめられ、ゼロになった距離に、焦り叫べば、耳元、囁くように落とされる声音に、ぞくり、背筋がざわついた。

「じゃあ、右肩甲骨の下、ここに、小さい黒子があるのは?」

 つっと、指先で骨のラインを辿られ、奇妙にざわついた感覚に、思わず、郭の肩口を、掴む。
 吐き出す吐息が、震えた。

「水野?」

 答えを促すように、背中から項、首筋へと辿られ、きゅっと、目を閉じる。
 それでも、どうにか郭を引き剥がそうと、腕に力を込めた時。 
 ふと、今の自分たちがいるのは、郭のベッドの上だと言うことを思い出す。
 そしてこの、まるで抱き合うような体勢。
 郭も、自分も、所謂『お年頃』。
 その上で、身体を震わせる自分のこの状況は、随分まずいんじゃあないかと、自覚する。
 カーテンを開け放った窓から差し込む光が映すのは、郭の日常が詰まった自室。
 途端、急激に襲ってきたのは、言いようの無い羞恥心。
 
「郭っ!」
「うん?」

 小首を傾げて、覗き込んでくるのには構わずに、強引に身体を引き剥がして、立ち上がる。
 頬が、耳が、熱い。

「帰る」
「どうしたの急に」
「用事、思い出したから」

 気恥ずかしくて、目もろくに合わす事が出来ないから。
 早口にそれだけ言って、送ろうとしてくれるのも断って、逃げるように部屋を出る。
 特に何をしたわけでもないのに、息が乱れた。
 その意味にはまだ、気付きたくないと思いながら。
 水野は足早に、家路を急いだ。




「逃げられちゃったか」

 一人、残された部屋の中。
 誰ともなしに、ぽつり、呟いて。
 思い出すのは、泣き出しそうなほどに、真っ赤な顔で、帰ると告げた水野の表情。
 抱きすくめた身体は、確かに、震えていた。

「可愛いんだからまったく」

 敏感なその反応を、思い出すだけで、笑みが零れる。
 
「さて、と」

 ぎしり、腰を下ろすのは、ベッドサイドに引っ張ってきた己の椅子。
 とん、と、爪先で床を蹴って、半回転させてみたりして。
 その口元、含むのは笑み。

「次はもっともっと、巧くやらなくちゃ、ね」

 いつも逃がしてはいられないと、一人笑う郭を、水野はまだ、知らない。