「お兄ちゃん寝るとこないんだろ?」

 不意に、掛けられた声に、顔を上げる。
 たった一日、公園に座っていただけで、目を付けてきたらしい、目の前の男は、高そうなスーツに、身を包んでいて。
 整えられた髪も、ノンフレームの眼鏡も。
 どこからどう見ても、堅気のそれにしか見えないのに。

「さあ?どうやろか」

 薄く笑って、見上げた眼の奥には、鋭すぎる光が、宿っていて。
 本能が、危険だと告げていた。

「そこの角を曲がったところに、小さい公園があるの、知ってるか?」

 うっそうと木々が茂った、見通しの悪い公園。
 大きく開け、遊具の数も多い此処とは違い、真昼でも、誰一人遊ぶ影が無かったのを、思い出す。

「あった様な気がするなぁ」
「この鞄、そこのベンチに持っていってくれないか?小遣いと宿代ぐらいは出してやるから」

 差し出されたのは、小さな黒いボストンバッグ。
 いかにもと行ったそれに、内心、苦笑しながら。

「ええよ。いくらくらはるん?」

 薄く笑みを浮かべて、見上げた眼が、嗤う。
 本能の警鐘を、ねじ伏せる。
 金が無い家出少年。
 それに漬け込む、悪い大人。
 典型的な構図。
 分かっているが、金が無ければ、どうにもならないことぐらい、知っていた。

「3万。大金だろ?」
「んー…」

 少ない。そう、思ったけれど。
 本能の意見を、少しは尊重して、下手にごねることなく、素直に首を縦に振った。

「じゃあ、前払い。…宿代は後でやるよ」

 三時間後に頼むといって、男は背を向けた。
 後に残されたのは、得体の知れない、ボストンバッグと、諭吉が三人。
 逃げ出そうにも、きっと、あの男は何処か安全な場所から、自分の事を見張っているのだろう。
 そんなことぐらい、わかっているから。
 一日中、お世話になっているベンチに、どさり、凭れる。

「俺も不良少年やなぁ…」

 それでも、手の中の諭吉は、手放す気は無い。

「………」

 ひらり、目の前を薄紅色の花びらが散る。
 見上げれば、満開の花天井。
 そう言えば、桜は母が好きな花だったと、思い出す。
 惚れた男と、所帯を持つことは出来たのだろうか。
 ずっと、夢だといっていた、自分の店は、持てたのだろうか。
 自分の事は…心配しているだろうか。

「アホらし」

 零れるように、呟いた耳に。 
 不意に、飛び込んできたのは、何よりも耳に馴染んだ音。

「へぇ、巧いやん」

 同い年、ぐらいだろうか。
 紅茶色の綺麗な髪をした少年が、サッカーボールを、蹴っていた。
 一定のリズムは、乱れることが無くて。
 声を掛けようか。なんて思ったとき。
 傍らのボストンバッグが、静かに存在を主張して。
 思わず、漏らす苦笑。

「…この金で、ボール買うか」

 シューズも、欲しい。
 家から持ってきたものは、とっくに、サイズが小さくなっていた。

「サッカーしたいな…」

 あの、紅茶色の髪の少年のように。
 無心で、ボールを蹴りたい。
 あの、紅茶色の髪の少年のような。
 巧い奴と、プレーがしたい。
 零れるように呟いた、その言葉を。
 薄紅色の風が、さらって行った。