身体がひどく重い。
 熱いような寒いような、妙な心地がした。
 乾いた唇から漏れる吐息は、熱く、荒い。

「やってもたなー…」

 呟いた声は掠れ、潰れていた。
 体温計など見なくとも、熱があるのはわかる。
 完全に風邪を引いていた。

「……―――っ」

 それでも、身体を起こそうとすれば、軋むように痛み出す関節がそれを阻む。
 おまけに喉からは咳がせり上がってきて。
 反射的に、布団に顔を押し付けて、押し殺す。
 堪えた分、肺が鈍く痛んで不満を訴えてきた。

「アカン…」

 見上げた天井は、奇妙に歪んで見えた―。




「…シゲっ?」

 頭の上で響く、松下の声が煩い。
 正直、立っているのも限界で。
 ずるずるとその場にしゃがみ込めば、両脇から差し込まれた手に、部屋の中に引きずり込まれた。
 先程よりも、視界が揺れている気がする。

「風邪…引いたみたいで…」

 いつもの様に、笑おうとして、失敗した。
 顔の筋肉を持ち上げるのも、辛い。

「見りゃあ分かる。医者は?」

 布団に放り込まれて、ひんやりとしたその感触に、小さく安堵する。

「きらい、やもん」

 ごそごそと潜り込みながら零せば、呆れた様に溜息を吐かれた。
 
「やから…今日、れん…しゅ…っ休むっ」

 なんとか、それだけ言って。
 後は咳に飲み込まれた。
 激しいそれを、押し殺そうとすればするほど、肺が痛む。
 無言で背中を擦ってくれる松下の手が、心地良かった。  

「分かった分かった。…兎に角寝てろ」
「たつ…」
「水野には黙ってていいのか?」

 言うより先に、問いかけられ、こくこくと頷く。
 喋るとまた咳が出そうだった。

「………」

 不意に、落ちる沈黙。
 怪訝に顔を上げれば、滲んだ視界の向こう、物言いたげに見下ろしてくる顔があって。
 
「………?」

 視線で問えば、ゆるく首を振られる。

「まぁ良い。…俺は行くけど、良いな?」

 額に当てられる手が、くすぐったい。
 小さく頷けば、そのままくしゃりと、髪をかき乱された。

「薬とポカリ、出しとくから」
「ん…」

 頷くけれど、布団から出る気は更々無い。
 医者も薬も苦手だった。
 松下の目が、見透かしたように、眇められる。

「…今飲め」
「……タツボンみたいなこと言いな、や」

 潰れた声で笑えば、無言で水と薬を差し出され、不承不承、飲み下す。
 錠剤だったのがせめてもの救いだ。
 
「帰りに何か買ってくるから」
「えぇ、よ。…布団だ、け貸してくれ、たら」

 世話を焼かれるのは苦手だった。
 心配されるのも、得意ではない。
 言外に言えば、松下はやっぱり何か物言いたげな顔をしたけれど。
 結局、何も言わずに部屋を後にした。
 
「…怒っとる…よなぁ…」

 瞼を閉ざせば、浮かぶのは綺麗に整えられた眉を、不機嫌そうに顰める愛しい人。
 真面目な彼は、きっと学校も部活にも、顔を出さなかった自分を、怒っているに違いない。
 容易に想像できるその顔に、シゲは小さく、笑みを零した。




「とりあえずお粥とか買ってきたから…」

 軋むドアを開けながら言えば、返って来る声は無くて。
 部屋に響くのは、荒い呼吸音。
 ひゅうひゅうと、妙な音を立てるそれに、僅かに眉根を寄せながら覗き込めば、苦しげに眉根を寄せながら、眠るシゲがいた。
 そっと、汗で張り付いた前髪を掻き揚げてやって。
 その額に、買ってきた冷却シートを貼ってやる。
 
「ん…」

 首筋にも、貼ってやれば、冷たい感触が意識を揺らしたのか、熱に潤んだ双眸が、松下を見上げた。

「何か食えるか?」

 言いながら、買い物袋の中身を示せば、小さく頷いたから。
 背中を支え、起こしてやる。
 掌に触れたそれは、随分と熱かった。
 
「体中…痛い、わ」

 力なく笑うから。
 苦笑で、返してやる。
 温めたレトルトのそれを、皿に移して。
 匙で掬って差し出せば、ふんわりと上がる湯気越し、一瞬、驚いた様に見開かれた眼が、可笑しかった。

「本当は水野にこうして欲しいんだろ」
「当たり、前やん」

 揶揄するように笑えば、匙をひったくりながら、心底嫌そうに顔を顰めるのに、また笑う。
 
「悪いな、熱出してる奴一人にして」
 
 苦笑混じりに言えば、熱いのだろう、ぐるぐると粥をかき混ぜながら、シゲが事も無げに口を開く。

「えぇよ。押し、かけたんこっちやし。昔か、ら病気しても一人やったしな」

 笑いながら言うから。
 
「そうか」

 事も無げに、頷いてやる。
 
「うちオカンだけ、やったし。夜、仕事で、たらどのみち、俺一人やん?」

 一口、粥を掬って、食べる。
 ふんわりと上る湯気の向こう、表情はよく見えないけれど。
 やはり、事も無げな顔をしているのか。 
 けれど、それはひどく寂しいことではないだろうかと、思う。
 熱で苦しいとき。
 痛みに不安なとき。
 人は誰か傍にいて欲しいと、思うのではないだろうか、と。
 
「前、な」
 
 潰れた声に、顔を上げれば、懐かしむように、シゲが笑う。

「風邪引いたとき、タツボン、にも同じこと言うてん…」
「うん」
「したら、な…」

 くるり。
 シゲの手に持たれた匙が、お粥をかき混ぜる。
 
「アイツ、ごっつい哀しそうな顔…しよってん…」

 ふんわり。
 湯気が上がる。
 シゲが零す、苦笑い。

「そんな顔、させた、ない…やん?」

 だから、来たのだと、潰れた声が、言った。
 心配掛けたくないから。
 哀しい顔をさせたくないから。

「寺におったら…和尚に、も迷惑かける、し…タツボン、も来てまうし…」

 きっと、学校にも練習にも顔を見せなかったシゲを、気にかけて。
 あの心配性な少年は、この不器用な少年を訪ねるだろう。
 
「そうか」
「うん」

 頷いて。
 それから先は、喉が辛いのか、話したくないのか。 
 それとも単なる気まぐれか。
 シゲは黙って、粥を口に運んだ。

「…ごめん、寝てえぇ?」

 そう言って匙を置いた時。
 皿には半分ほど、粥が残ったままだった。
 食欲も、無いのだろう。

「良いよ。その前に薬な」
「………」

 子どものように、心底嫌そうな顔をするから。
 軽く頭を叩いて、ポカリの入ったコップと薬を、差し出してやる。

「あー…しんど…」

 不承不承飲み下して、布団に潜り込むシゲ。
 薬が効いているのか、身体が求めるのか。
 すぐに寝息が、聞こえ始めた。

「………」

 その寝顔を、横目に見て。
 取り出すのはケータイ。
 呼び出した番号にコールを掛ければ、すぐに、聞きなれた声が耳に響いた。
 隣のシゲを気にしながら。
 二言、三言、言葉を交わす。

「…はい、じゃあすみませんが…」

 見えもしないのに。
 電話の向こうに頭を下げて、終話ボタンを押す。
 不意に、傍らの寝息が、乱れた。

「―――っが…っ」

 激しい咳が、喉を、突く。
 反射的に布団に顔を押し付けるから、それは一層苦しさを呼ぶのだろう。
 揺れる背中が、激しく上下する胸が、痛々しい。

「シゲ…」
「ごめ…や、で…うる、さ…やろ…」

 それでも、口の端を上げて笑おうとするから。
 背中を擦りながら、そっと、布団を掴む手を、離させる。
 いつもより熱い手は、それでもきつく、布団を握り締めていた。

「良いから。押し殺すな。余計苦しいだろう」
「―――は…っ」

 咳の狭間。
 漏れる吐息は、ひゅうひゅうと音を立てる。
 外させた手が、ぎゅっと、握ったままの松下の手を、掴む。
 その手を、きつく握り返してやりながら。
 まるでそれは、縋りついてくる様に、松下の眼に映った。
 
「癖、か?」
「…え…?」

 ようやっと、咳が収まった頃。
 問いかければ、未だ整わない息の下、怪訝そうに見上げてくる眼に、視線で、示すのは皺のできた布団。

「咳、押し殺すの」
「え…?あぁ…癖、なん、かな…」

 言われ、初めて気付いたような顔をするから。
 やはり無意識なのだろうと、確信する。

「オカン、仕事から帰って、きたら、いっつも疲れて寝と、るから…」

 それを起こさないように、風邪を引いたときはいつも、咳を押し殺していたと言う。
 幼い頃に身に着けたそれは、シゲの中では当たり前の行動として、染み付いたのだろう。
 脳裏に浮かぶ、闇の中、一人咳を押し殺す、幼い少年。
 それはひどく、寂しい光景だった。
 
「癖、やな」

 笑う顔は、どこか弱々しく見えて。
 それでも、笑ってやれば、どこか安心したように、シゲが笑った。
 
「タツボンには、内緒、やで…」

 潰れた声が、言う。
 
「また、アイツ…心配するし…哀しそうな顔…するや、ろ?」

 だから、隠す。
 見えないように、見せないように。
 けれどそれは同時に、相手への拒絶を含んでいることに、シゲは気付いているのだろうかと、松下は思う。
 ひどく器用な少年は、無意識に、いっそ憎らしいほどに。
 巧く他人を躱すから。 
 本当は、求めて止まないくせに。

「………?」

 怪訝そうに、見上げて来た時。
 古い呼び鈴が、掠れた音で松下を呼んだ。
 玄関に出て、交わすのは感謝の言葉。
 吹き込む夜風が身体に辛いのか、布団の上、迷惑そうに顔を顰めるシゲに、向けるのは笑み。
 
「行くぞ」
「え?」

 Tシャツ一枚では、寒いだろうから。
 ジャケットを貸してやって、ふらつく身体を、支えてやる。

「どこに…」

 問いかけは、軽く流して。
 借りた車にシゲを押し込むと、松下は勢いよくアクセルを踏み込んだ―。 




「ついたぞ、降りろ」
 
 告げれば、驚いた様に目を見開いて、見つめてくるから。
 くしゃり、その派手な頭をかき乱してやる。

「心配ぐらい、させてやれ」
「………」

 視線をそらしたまま、俯いてしまうから。
 向けるのは、苦笑。

「水野はそんな、信頼できない奴なのか?」
「ちゃう、わ…っ」

 返って来るのは、強い、否定。
 
「だったら」

 向けるのは、真剣な眼差し。

「行動で示してやれ」

 昼間、直接、そんな素振りは見せなかったけれど。
 水野はひどく、シゲのことを心配していて。
 それを告げれば、一瞬、驚いた様に目を見開いた後、力の入らない手で、それでも、シゲは慌てたように、車から降りた。

「おっさん」

 ドアを閉める、直前。
 呼び止められ、顔を上げれば、睨みつけられ、面食らう。

「ありがとう…な」

 そのまま、ドアは閉じられてしまったから。
 顔はよく、見えなかったけれど。
 その乾いた口元が、微かに、笑っていたように、松下の目には見えた。
 よろよろと、ふらつきながら。
 それでも、水野と書かれた表札の横。
 インターホンを鳴らし、待つこと数秒。
 驚いたような、怒ったような水野の声に、シゲが出迎えられたのを見届けて。
 松下は気付かれぬようこっそりと、ハンドルを切った―。