布団の中で、ころんと寝返りを打つ。
お母さんの呼ぶ声に、起きようかどうしようか迷ったけど。
今日が何の日か思い出して、ぼくは慌てて布団から抜け出した。
「おはよう、たっちゃん」
ふうわり。
誰より優しく、お母さんが笑う。
ねえ、今日は何の日か知ってる?
訊こうとする前に、お母さんが、まだ寝癖のついた頭を撫でてくれながら、言った。
「お誕生日おめでとう」
何だかすっごく、嬉しくて、恥ずかしくて。
くすぐったい。
「ありがとう」
笑った僕は、多分、変な顔してたんじゃないかな。
一瞬、覗いた台所からは、甘くていい匂いが、漂って来てた。
お母さんのケーキの匂いだ!
時々、孝子おば…お姉さんたちが買ってきてくれる、お店のケーキよりずっとおいしい、お母さんのケーキ。
「ケーキ作るの!?」
「そうよ。たっちゃんのお誕生日ケーキ。お昼からおばあちゃん達も来るから、そうしたら…」
「皆で食べよう!」
甘くて、ふわふわで、おいしいお母さんのケーキ。
おばあちゃん達も、来てくれるんだ!
何だかすごく、嬉しい。
やっぱり今日は、特別な日。
顔を洗ってきなさいって、お母さんに言われて洗面所に立つ。
鏡に映る顔は、昨日と同じぼく。
だけどなんだか、昨日とは違うぼくのようにも、思えた。
顔を洗って歯を磨いて髪を梳いて。
柱に、お父さんが作ってくれた身長計に、こつんと定規を押し当ててみる。
「…変わってないや…」
一つ、お兄ちゃんになったんだから、少しくらい、背が伸びたっていいのに。
でも、きっとこれから伸びるんだ。
前に足が痛いって言ったとき、お父さんが笑ってそう言ってたから。
―早くお父さんみたいになりたいな―
お父さんみたいな、かっこいいサッカー選手になるんだ。
それが、ぼくの夢。
絶対、叶える、ぼくの夢。
「竜也」
お父さんだ。
そうか、今日はおやすみだから、お父さんうちにいるんだ!
「なぁに?」
走って行った居間のソファにはお父さんはいなくて。
お母さんが玄関よ、って教えてくれた。
急いで、玄関を覗く。
「なぁに?お父さん」
玄関でお父さんは、靴を履いていた。
でかけちゃうの?
今日はぼくの…
「誕生日おめでとう。竜也。…ついてきなさい」
笑って、ぼくの頭を撫でてくれたお父さんが、手を差し出してくる。
ぼくは慌てて、自分の靴を履いて、お父さんの手を取った。
おっきくて、あったかい手。
「待って!ほらたっちゃん、コートとマフラー」
慌てて出てきたお母さんが、着せ掛けようとしてくれたのを、急いで受け取った。
もう、昨日までのぼくとは違うんだから。
「自分でできるよ!」
お母さんは一瞬、びっくりしたみたいに目を見開いた後、笑ってマフラーも、差し出してくれた。
「えらいぞ竜也」
お父さんがまた、頭を撫でてくれる。
ぼくは何だか少し、大人になった気分だった。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
手を振って見送ってくれるお母さんに、手を振り返して。
外に出たら、冷たい風が、ほっぺたを撫でた。
でも、平気。
昨日までのぼくとは、違うんだから。
「グラウンドに行くの?」
この道は知ってる。
いつも、お父さんとサッカーの練習をする近くの公園への、道だ。
ぼくの大好きな、道。
「そうだ」
頷くお父さんはだけど、いつも持ってるサッカーボールを持ってなかった。
ぼくも、持ってきてない。
お父さんが持ってるのは、大きな紙袋だけ。
サッカーしに行くんじゃないの?お父さん。
忘れたのかな?でもそんな大切なもの、忘れるかな?
公園においてあるのかな?
誰かに借りるのかな?
でも…誰か知らない人のボールで練習するのは、ちょっと嫌だなあ…。
「竜也?」
名前を呼ばれて、もう公園についていたことに、気が付いた。
ぐるぐる考え事をしてる間に、ついっちゃったみたい。
「竜也」
お父さんがしゃがんで、ぴったり、ぼくと目を合わせる。
強い、目。
サッカーの試合のときの、お父さんの目に似てる。
「なぁ、に」
どきどきしてきて、声がちょっとだけ、のどにつっかえた。
「これを、お前にあげよう」
そう言って、お父さんが大きな紙袋から取り出したのは、まっさらなサッカーボール。
「良いの!?」
受け取ったら、まだ、泥一つ付いてないサッカーボールは、つん、って皮の匂いがした。
「あぁ。私からの誕生日プレゼントだ。…お前の、竜也の、サッカーボールだ」
「ぼくの、サッカーボール…」
手の中の、まだ固くて、つるつるしてるサッカーボール。
今まではずっと、お父さんのサッカーボールで練習してたから。
こいつが初めての、ぼくだけのサッカーボール。
「ありがとうお父さん!大事にする!」
嬉しくて、嬉しくて。ボールを抱きかかえて言ったら、お父さんにふるり、首を振られた。
違うよって。
「大事になんてしなくて良い。…ぼろぼろになるまで、そいつを使い込みなさい。そうだな…それが大事にするってことだよ、竜也」
強い、目。
きゅっと、強くボールを抱きかかえる。
「ぼく、うんと練習する。うんと練習して、お父さんみたいなかっこいいサッカー選手に、なる!」
初めての、ぼくのボールを抱えて、走り出す。
まだ誰もいない、グラウンドの真ん中へ。
「お父さん!」
大事な大事な、何より嬉しい、プレゼントを掲げて。
早く、早く。
「練習しようよ!お父さん!」
だってぼくは、絶対、お父さんみたいなサッカー選手になるんだから。
誰にも負けない、誰より強い、サッカー選手になるんだから!