ざわついた構内。
 人の行き来が激しいその中を、何度も他人の方にぶつかりながら、天井から釣り下がる、表示に従いながら、急ぐ。
 自然、足早になっている自分に気付き、思わず内心、苦笑する。

―どうせ遅刻してるのに…―

 ポケットから取り出したケータイが示す時刻は、待ち合わせのそれよりも三十分も早い。
 ただでさえ、遅刻魔の彼が、来ている訳が無いのに。
 それでも。
 指先の操作で、開くのは受信フォルダ。
 そこに在る、一通のメールを見るたびに、嬉しさが込み上げて来るのを、否定しきれない。
 
『ほんなら、明日こっち来ぇへん?』

 ひどく軽いノリのそれに、返したメールはたった一言。

『行く』

 それから十数時間後の今。
 水野は、生まれて初めて、京都の地を踏んでいた。

「タツボンっ!」

 不意に、響いた大声。
 聞き逃し様のないそれは、自分の他にも、周囲の人々を振り返らせるには十二分で。
 大きく手を振る笑い顔に、反射的に、開いた口から、吐き出したのは、怒鳴り声。
 
「声でかいんだよ馬鹿っ!」

 本当に本当に。
 久しぶりに会ったというのに。
 以前となんら変わりの無い、軽口を叩いてしまっている自分に、思わず、笑ってしまう。

「てか、早いじゃん」
「タツボンもな」
 
 にやりと、見透かしたように笑うから、軽く睨みつければ、いつの間にかそれすらも、笑い声に変わっていた。

「久しぶり」
「うん。久しぶり」

 改めて、見返した顔は、何だか少し、雰囲気が変わっているように感じて、どくり、胸がざわつく。

「髪、切ったんだ」
 
 そっと、手を伸ばす。
 派手な金髪は、相変わらずだけれど。
 以前なら、指先を絡めることの出来た髪は、首筋にほんの僅かに、かかる程度になっていた。 
 
「写メ送ったやん」
「…あぁ…」

 そう言えば、春にそんな写真が送られてきていたことを思い出す。
 それでも。

「実際に見るのと、違うじゃん」
「男前やろ」

 人混みを、器用に避けながら。
 シゲが、笑う。
 その笑顔は、なんら以前と変わりないのに。

「は…っ」

 鼻で笑い飛ばしながら、水野は内心、胸がざわつくのを押さえ切れなかった。
 髪を、切ったせいだろうか。
 ほんの少し先を行く背中が、見知らぬ誰かの背中のように、感じられるのは。

「あっつ…」

 外に出た途端、思わず、零してしまう。
 身を包む、東京とは違う熱気に、眩暈を覚えた。
 じわり、汗が滲む。
 構内にいるときから、何となく感じていたけれど。
 外から見ると余計に、自分の中の京都のイメージと、近代的過ぎるような駅との差異に、違和感を感じる。
 知らず、視線を巡らせれば、くすりと、小さな笑い声を耳が捉えた。

「何だよ」
「べっつにぃ。…さて、どないしますお客さん」

 揶揄するような声は、軽く無視して。
 ずっと、思っていたことを、口にする。

「お前が住んでるとこ、見たい」

 シゲの眼が、驚いた様に見開かれた―。




 地下鉄と電車を乗り継いで。
 たどり着いた寮は、武蔵森のそれと、当たり前だけれど、大差ない。
 休日の、やけに静かな廊下に、差し出された来客用スリッパがぺたぺたとした足音を響かせる。
 
「ルームメイトは?」
「休日に寮でじっとしとる奴なんかおるかいな」

 言われ、それもそうかと、納得する。

「はいどうぞ」
「お邪魔します」

 反射的に、軽く会釈をしてしまいながら、ドアを潜る。
 無人だった部屋に、冷房が効いているわけもなく、むっと、思わず息を詰めるほどの熱気が、身を包む。
 共有らしい、中途半端に散らかったローテーブルの上に投げ出されたリモコンで、シゲが素早く、冷房を入れる。
 真正面に据えられた勉強机は、聞かなくても、どちらがシゲのものか分かってしまう。
 それぐらい乱雑に、散らかっていた。

「俺のベッドは…」
「こっちだろ?」
「うん」

 指されるより早く、腰を下ろしたそこは、起き出したままの形で、放置されていた。
 古い所為か、矢鱈と派手な音を立てながら、矢鱈と強い風を吐き出すエアコン。
 シゲの部屋に、空調の音が響くのに、なんだか違和感を感じてしまう。
 部屋の温度が、急速に下がり、汗ばんだ肌に心地良い。
 放り出されたままの雑誌や衣服を脇に退けながら、シゲが呆れたように、口を開く。

「寮なんかどっこも大差ないやろ?」
「うん。部屋の造りもうちと似てる」
 
 言いながら、見回す部屋は、それでも、寺のシゲの部屋をそのまま持ってきたようなそれで。
 そのことに少し、安堵する。
 
「タツボン」
「ん?」

 呼ばれ、振り返った途端。
 唇に触れた、柔らかな感触。
 触れただけのそれなのに。
 ひどく、頬が熱い。
 
「久しぶりやな…」

 呟き、笑うシゲの顔が、ひどく、大人びて見えて。
 どくり、胸がざわつく。
 高校に進学してから、たった数ヶ月、逢わなかっただけなのに。
 背が少し伸びたから?
 肩幅が少し広くなったから?
 髪を切ったから?
 そのどれもが、当て嵌まるような、違うような気がした。
 何より。
 
「タツボン?」

 見上げれば、怪訝そうに小首を傾げる、その瞳の奥底。
 はっきりと、強い光が、宿っていて。
 どくり、また、胸がざわつく。
 感じるのは、焦りににも似た、思い。
 自分一人、置き去りにされたような。

「…どないしたん?」

 知らず、その首筋に、顔を埋めていた。
 ぎゅっと、両の手が、シゲのシャツを、掴む。
 
「勝手に、男前になるんじゃねぇよ」

 ぼそり、吐き出した声は、ほんの少し、震えていた。

「…うん。ごめんな」

 とんとんと、まるであやす様に、背を叩くシゲの手が、ひどく優しくて。
 それから暫くの間、水野は顔を上げることができなかった。





「それじゃあ」
「うん、また。…今度は俺がそっち行くわ」

 ざわついた、駅の構内。
 通路の脇に避けた自分達の横を、足早に過ぎる人々。
 互いの笑い顔の裏に、隠すのは別れの寂しさ。
 気まぐれに見せかけて繋いだ指先は、何時もなら簡単に振りほどかれるのに。
 今は、何も言わずに、受け入れてくれた。

「なぁタツボン」

 ちらり、電光掲示板に視線を投げる。
 後、五分。
 示された時間に、舌打ちしたいほどの衝動に、駆られる。

「何?」

 ほんの少し、見上げてくる距離が、縮まっていることを、水野は気付いているだろうか。 
 少し伸びた髪が、大人びて見せているのを、気付いているだろうか。
 何より。
 見上げてくる瞳に、不安定さは削ぎ落とされて。
 代わりに、ひどく強い光が、宿っていることを。
 それはひどく、自分を惹き付けることを。
 その一つを見つける度に、自分が胸をざわつかせているのに、気付いているだろうか。
 感じたのは、焦りにも似たもどかしさ。
 自分の知らない所で、水野が変わっていくような気がしたから。
 耳の奥底、蘇るのは、まるで縋るように零されたあの声。
 同じ事を、思っていたのだ。
 思って、くれていたのだと、ひどく安堵したのを、水野は気付いているだろうか。

「お前こそ、勝手に男前になるなや」

 一瞬、驚いた様に目を見開いた後、水野は今にも泣き出しそうな顔で、笑った。
 きっと、自分も似たような顔をしているんだろうなと、どちらともなく、絡めた指先を解きながら、シゲは思う。
 残り時間は、後三分。
 忙しなさを増した人込みに、水野を送り出す。
 
「惚れ直したわっ」

 人ごみに飲まれる背中に叫べば、怒鳴られるかと思ったけれど。

「俺もだよ」

 予想外の言葉に、かっと、頬が熱くなる。
 
「あぁもう…」
 
 いつだって、敵わないと、思う。
 いつだって、二人の想いは変わらない。
 それを、突きつけられた気がした。


 その後暫く、構内の片隅、蹲る金髪がいたことは、水野は知らない。