貧相な光を投げかける街灯が照らす、薄闇を、一人、歩く。
 ついさっき煙草を買ってしまったから、もうポケットには僅かな小銭しか、残ってなかった。

―どうしよっかなぁ…―

 助っ人を増やそうかとも思うが、いまいち気が乗らない。
 ふうわり、煙を吐き出してみたりして。
 誰か食わせてくれないかと、のんきに考えていたとき。

「やぁ、シゲちゃんやん」

 唐突に、背中に掛けられた甘ったるい声に、振り返る。
 自分のそれより、少しきつめの西の言葉は、東京と言うこの街では、なんだかひどく、浮いて聞こえた。

「久しぶり、覚えてる?」

 肩に掛かる手が、柔らかい。
 ふわり、甘い匂いが、鼻腔を掠める。
 可愛らしく小首を傾げるその女は、確か二学年上の卒業生だと、記憶の底から引きずり出した。

「覚えとるよ。先輩かわいなったなぁ」

 まだ吸いかけの煙草を、指先で弾いて。
 笑いかければ、女はひどく嬉しそうに、声を立てて笑った。
 地元高校の制服を身に纏った彼女は、化粧を覚えた所為か、在学中の頃より、ずっと可愛くなった。
 確か、演劇部の助っ人のときに、同じ関西出身と言うことで、やたらと纏わり着いて来た女だ。
 今も、肩に置かれた手は、そのまま。

「懐かしいなぁ。みんな元気?」

 笑う女に、適当に相槌を打つ。
 随分と短く折られたスカートから、ほっそりとした脚が、覗く。
 色白の肌に、少し明るめの髪は、染めたのだろうか。
 水野の方がずっと綺麗だと、思う自分に気付き、どうしてそこで男と比べるんだと、内心、漏らす一人笑い。

「シゲちゃん、今暇?」

 ほら来た。
 内心で、予想していた言葉。
 けれど、期待していた言葉では、無い。
 こんな女なんてどうでも良い。
 向こうもきっと、本気じゃあない。

「うち来ぃひん?シゲちゃん相変わらずお金ないねんろ?ご飯奢ったげるわ」

 媚びる様な色を含んだ瞳が、笑う。

「ホンマに?嬉しいわぁ」

 返す言葉が、何処か空々しいと、シゲは内心で嗤った。




 最初は、やたらと腕を絡ませてきた。
 肩に頭を預けられても、特に何も言わないままでいれば、

『今日親おれへんの』

 そんな、お約束の言葉とともに、薄く笑みを刷いた唇が、押し当てられる。
 グロスを塗ったそれは、べた付いた感触を、シゲの唇に残した。
 不快、だと思う。
 それでも、口腔内に入ってきた舌には、適当に応えてやった。
 
「シゲちゃんって、ホンマ男前やんねぇ」

 白く細い指先が、頬をなぞる。
 うっとうしい。

「ホンマに?ありがとぉ」

 言いながら、手は女の、セラー服の裾の中。
 こうすることが、今自分に望まれてることだろうから。
 くすくすと、響く、粘ついた笑い声が、鼓膜に絡みつく。

「ええの?彼女おるんちゃうん?」

 媚を含んだ眼に、上目越しに見つめられ、内心で零すのは侮蔑の笑み。
 何を今更。

「おらんよ。先輩は?」
「おらんよぉ」

 少し不安げな声で聞いてやれば、女は満足そうに、そう言って笑った。
 面倒くさいと、頭の片隅で思う声を、追い払う。
 飯付きでヤラせてくれるのだ。
 労働と思えば、苦でもない。

「シゲちゃんの学年にさぁ、もう一人、顔の綺麗な子、おったよね」
「さぁ?誰やろ」

 互いの身体を弄りながら、倒れこむのは女のベッド。
 知らない香水の匂いが、甘ったるく鼻腔を埋める。

「水野くん。ゆうたかなぁ」

 楽しげな笑みを含んだ声に、一瞬、指先が止まる。

「あの子も、男前よねぇ」

 笑う女の、小作りな顔を、殴りたいと思った。
 胸に湧く、どろりとした感情を、押し殺すように、女の肌に、舌を這わす。 
 スカートの裾を捲くる指が、微かに震えた。

「やめとき。アイツ真面目やから。…てか。俺にしといてや」

 耳元、囁き落とす。
 嬌声に唇を震わせながら、女は、満足そうに笑った。
 
「あぁ…ぁ…」

 口を半開きにして、喘ぐ様に、何故か、豚の姿が、浮かんだ。
 咥え込んで、満足げに身体を揺らす。
 まるで本物の豚みたいだと思うと、吐き気がした。
 それでも。

「シゲちゃ…」

 指を伸ばしてくるこの女は、水野とも当然のように、セックスする権利を、持っているのだ。
 告白して、付き合って、セックスする。
 所謂、当たり前の恋愛経験を、辿ることができる。
 こんなにも汚らわしい存在なのに、自分よりずっと、その権利を持つに相応しい。
 そのことに、何の疑問も抱かない、目の前の性に、無性に、泣きたくなった。
 事実、透明な雫が、頬を伝う。
 こんなにも、自分は遠い。

―何セックスしながら泣いとんねん…―

 馬鹿みたいだと、零した自嘲の笑みは、歪んでいた。





「お前、2こ上の先輩と付き合ってんの?」

 廊下で、声を掛けてきた水野の表情は、ひどく不機嫌そうで。
 相変わらずだと、思わず、笑ってしまう。
 窓ガラスから差し込む光に、紅茶色の髪は、琥珀色に透けて見えて。
 ああ、綺麗だなと、思った。

「ん?何?気になんの?」

 揶揄する様に笑えば、別にと顔を背けられる。
 確かに、あの女とは、あれから毎日、一緒に帰っている。
 わざわざ向こうの高校の前で、待っていてやったこともあった。
 付き合っているかと聞かれて、そう言えば、付き合っていることになるのだろうなと、頭の片隅でぼんやりと思った。

「『シゲが超可愛い先輩掴まえた』って、噂になってたぞ」

 ぼそり、呟かれた言葉に、セックスの最中のあの女の顔が、浮かぶ。
 豚の様に喘ぐあの様の、何処が可愛いのだろう。

「タツボンも、あの先輩のこと気に何の?」

 問う声が、自然、低くなるのに、自分でも笑ってしまう。
 それが嫌で、自分はあの女と、付き合うことにしたのだから。
 水野に、近づけたくなかったから。
 あんな汚い存在を、近づけたくなかったから。
 きゅっと、握り込んだ手指の爪が、掌に刺さる。

「そんなんじゃないっ!」

 怒鳴る声が、どこか必死に聞こえて。
 真逆、と不安が過ぎる。
 今、自分がしていることを、あの女と、水野がするのだ。
 当然のように、浮かび上がる画が、どうしようもなく、悔しい。
 こんなにも、想うのに。
 
「ふぅん。…けど…」

 すい、と、触れそうなほど近く、顔を近づける。
 見開かれた眼に映る、自分の影。
 こんなにも、近くにいるのに。
 どうしようもなく、遠い。

「あげへんよ、先輩はもう俺が貰ったんやもん」

 口角を吊り上げ、浮かべるのは勝ち誇ったような笑み。
 水野の表情が、その一瞬、傷ついた様に歪んで見えて。
 思わず、目を見開く。

「タツ…」
「そんなんじゃないってんだろっ?お前こそ女とっかえひっかえしてんじゃねぇよ」

 叫ぶようにそう言って、くるり、踵を返す。
 自分を、睨み上げた水野の目に浮かんでいたのは、侮蔑の色。
 遠ざかる背中に、追い縋って引き止めて、そうじゃないと叫びかった。

―アホくさ…。やってどうなんねんなぁ…?―

 ちくり、痛む胸に、自分で撒いた種だと、自嘲の笑みすら、零れなかった。
 ずるずると、壁伝いに、その場にしゃがみ込む。
 リノリウムの床は、鈍く陽光を、跳ね返していた。
 
「やって…タツボンだけはあげたくないんやもん…」

 ぼそり、一人零した呟きは、誰に受け止められることなく、廊下のざわめきに溶け消える。
 
「好きな奴、とられたないやんか…」

 ぼそり、一人零した本心も、誰に受け止められることなく、廊下のざわめきに溶け消えた―。