「………」

 じっと、睨みつける包丁の側面に、鈍く、映りこむ自分自身。
 いくら睨みつけても換わらないそれに、水野は小さく、溜息を付いて、そっと、包丁をシンクに戻した。

「なんて事言い出すんだよあの馬鹿…」

 呟いて、思い出すのは先程のこと。
 今日は七夕の次の日。
 つまり、シゲの誕生日。
 プレゼントを、用意したいと思ったのだけれど。
 何がいいのか、考えれば考えるほどに、分からなくなってしまって。
 結局、当日になっても用意することが出来なくて、本人に尋ねれば、満面の笑みで返って来たのは

『タツボンの手料理』

 という無理難題に近い要望。
 生まれてこの方、包丁なんて、家庭科の時間以外、握ったことが無い。
 シゲもそれを良く分かっているくせにと、睨みつければ、

『だって俺いっつも自炊なんやもん』

 なんて言うものだから。
 無碍に払い下げることも出来なくなって、今に至る。

「やるしかない、な…」

 呟いて。
 思い切って、充実した水野家の冷蔵庫のドアに、手を掛けた。





 そうっと、足音を忍ばせて、階段を下りる。
 当日になって、プレゼントは何がいいのかなんて、真正面から訊いてくるものだから。
 あの水野のことだから、今日まで、散々に悩んだのだろうと、想像するともう、愛しくて。
 つい『手料理が食べたい』なんて、言ってしまったけれど。
 水野の生活能力の低さは、自分が一番良く知っていると、自負しているところでもあった。
 
「まぁ、俺のためにがんばってくれたらそれでえぇって意味やったんやけど…」

 いつも自炊だから、偶には他の人間が作った料理が食べたいと思ったのも、事実では有る。
 それでも、流石に料理はハードルが高すぎたかと、不安になって。
 『ちょっと待ってろ』と、憮然とした表情で言い置いて、水野が消えた階下に降りてきたはいいが、その姿が見当たらない。

「タツボン?竜也さーん?」
「待ってろって言っただろっ?」

 気が抜けた声で呼びかければ、怒鳴り声が聞こえてきたのは、キッチンのほうからで。
 本当に料理を作る気なんだと、自分で言って、感心してしまった。

「大丈夫?無理やったら…」
「煩い!…開けるなよ!待ってろっ!」

 キッチンへのドア越しに、訊ねれば、返って来る声に余裕は無くて。
 いっそう、不安を掻き立てられただけだった。

「そうは言うてもやな…」

 ひとりごちるように呟いて、視線を巡らせれば、リビングへと通じるドアは、開け放ったままになっていた。
 そうっと、足音を忍ばせて、リビングから、奥のキッチンを、覗きこむ。
 水野の視線は、キッチン台に集中していて。
 シゲに気付く気配は無かった。

「相変わらず詰めが甘いやっちゃなぁ…」

 呟きながら、そっと、ソファの影へと、身を潜める。
 覗き込んだキッチンでは、水野が人参を手に取ったところだった。

―なろほどカレーか…無難やな―

 テーブルの上に並べられた材料に、ほっと、胸を撫で下ろす。
 カレーぐらいなら、水野も家庭科の調理実習で作ったことがあるだろう。
 けれど、覗き込んだ先では、そうは行かないようで。

「うわ…」
 
 思わず、声に出していた。
 慌てて、手で口を覆うが、シゲの視線の先、包丁を操る手つきは、余りに危うい。

―あぁ…もう、それヘタどころか実まで切り落として…うわあもったいな…―

 なんとも無残な姿に加工されていく人参に、思わず、同情してしまう。
 多量に実の部分まで切り落として、そのまま躊躇い無く捨てていく様に、経済的格差とはこういうものかと、実感せずにはいられなかった。

「痛…っ」

 不意に、響いた悲鳴に、顔を上げる。
 もう、見てはいられなかった。

「貸してみ」
「―――っ?おま…っ待ってろって言ったろ!?」

 驚いた様に目を見開いて、怒鳴る水野には構わずに。
 その手の中から、包丁を取り上げる。

「何で包丁使って人参の皮むきなんて高等なことやってんねん。皮むき器使いや」
「ねぇよそんなの」
「うっそマジで?」

 「流石真理子さん。レベル高いわぁ」と、感心したように呟けば、水野が不機嫌そうに眉根を寄せた。

「悪かったな。息子のレベルは低くて」
「誰もそんなこと言ってないやん」

 苦笑交じりに、紅茶色の髪を掻き乱せば、うっとうしそうに振り払われてしまう。
 その指先、滲む赤に、シゲは困った様に、笑った。

「包丁は俺が担当するから、タツボンはとりあえず絆創膏貼ってき」
「…悪い…」

 ばつが悪そうに呟くに、つい、笑ってしまう。
 リビングで絆創膏を指に巻いているのを、視界の端に確認して。

「さて…」

 目の前に転がるのは、無残な姿の人参が一本。
 水野には悪いが、幸いなことに、後の材料は手付かずで置いてあり、内心、安堵の息を吐く。
 軽く、手を洗って。
 シゲはテーブルに並ぶジャガイモたちに、向き直った。




「お前手際いいな」

 感心した様に呟く水野の目の前では、完成されたカレーが、暖かな湯気を立てていて。
 野菜を洗う、ご飯をよそう。の二点しかまともに働けなかった水野にしてみれば、少し、悔しい。

「まぁ、回数こなしてるからな」
「……なんか、悪いな」

 呟いて、俯いてしまった水野に、シゲが困った様に、笑う。

「えぇやん。『愛の共同作業』って感じで、俺楽しかったし」
「アホじゃねぇの」

 笑いながら言うシゲに、気恥ずかしそうに視線を逸らしながら。
 呆れた様に言う水野の、耳は、少し、赤い。

「ほな、食べよか」
「あ、シゲ」

 席に着こうとするのを、遮って。
 慌てて、今日一番、肝心な言葉を、唇に乗せる。
 
「誕生日、おめでとう」
「ありがとう」

 ひどく、嬉しそうに笑うから。
 つられて、水野からも、笑みが零れる。
 
「来年こそは、頼むわ」
「うっさい」

 揶揄する様に笑うシゲを、軽く睨みつけながら。
 来年は、さてどうしようかと、水野は小さく、笑みを零した。