つまらない。
 ぎしり。
 学習机付属の、椅子の背凭れを軋ませながら、思う。
 とん、と爪先で床を蹴って、くるりと一回転させてみたりして。
 三六〇度回転して、再び元に戻った視界は、やはり、変わらなかった。

「なぁ」

  ぎしり。
  椅子の背凭れを軋ませながら、呼び掛けてみる。

「うん?」

  はらり。
  頁を捲る、乾いた音。
  返ってきたのは、典型的生返事。
  部屋に入ったときから変わらない横顔は、文庫本から視線を上げることがない。
  つまらない。
  何度目がわからない、そんな感想。

―顔ぐらい上げろっつの―

  せっかくの休日なのに。
  ちらり、視線を投げ掛けた窓を伝うのは、雨粒。
  次から次へと降り注ぐそれは、外の世界を奇妙に歪ませては、伝い落ちていく。
  こんな天気の中でも、チームメイトたちは、たまの休日を逃すことなく、連れ立って買い物に出掛けたというのに。
  つまり、せっかく二人きりになれたと、いうのに。
 渋沢の意識を支配するのは活字の羅列のみ。
  インクと繊維の集合体に負けたのかと思うと、腹立たしい前に、なんだか少し、悲しかった。

「渋沢」
「………うん?」
 
  返事をするのに、間があったのは、彼の視線が文を追っていたから。
  物語は佳境に入っているらしい。
 いい加減にしろ、と思う。

「渋沢」
「うん?」

  ぱらり。
  また一頁、捲られる。
  視線はまた、活字を追う。
  精悍な横顔を眺めるのは悪くない。
  けれど、横顔だけを眺め続ける気は、更々無かった。

「キス、したいんだけど」

  ぱん。
  乾いた音が、幾分勢い良く響いたのは、気のせいではないだろう。
 今、絶対、閉じられた文庫本には、栞も何も、挟まれていなかった筈だ。
 
「なに…?」

  ようやっと、真正面から見ることのできた顔は、ひどく驚いたように目を見開いていた。
  その、少し赤くなった目元に、思わず、忍び笑いを零せば、思い切り、顔を顰められた。

「からかったのか?」

  呆れたような風を装ってもまだ、目元は赤い。
  無言で笑い続ければ、わざとらしく溜め息を吐かれる。

「どこまで読んだか分からなくなってしまったじゃないか」

  言いながら、ぱらぱらと頁を探し出しす。
  がたり。
  立ち上がる勢いのまま、渋沢の手から、文庫本を取り上げる。

「三上…?」

  怪訝そうに見上げてくる、琥珀色の瞳に、映るのは自分の影。
  すい、と屈み込む。
  ふうわり。
  湿気を孕んみ、膨らんだ髪が、鼻先を擽る。
  渋沢自身は嫌がるけれど、梅雨時のこの髪は、嫌いじゃあなかった。

「誰がからかったなんて言った?」
「え?……――っ?」
 
  自分の影が映り込んだ琥珀色に、そっと舌を這わせれば、渋沢の肩が、小さく跳ねたのが、気配で分かる。
  ほとんど反射的に、押し返そうと、肩に置かれた手に、反対に、絡めた指先。

「何……」
「キス、したいんだけど」

  繰り返す言葉と共に、きゅっと、しっかりと絡め直した手に、力を込める。
  揺れる琥珀色を捉えれば、渋沢は逃れる様に、ゆっくりと目を伏せる。
    軽く、空いた左手で、いつもよりふわふわとした髪を梳きながら、伺うように覗き込めば、一瞬、逡巡するような気配の後、微かに、本当に小さく、首が縦に揺れた。

―まぁ…上等、かな―

  頷いてくれただけでも良しとしよう。
 
「渋沢」

  促すように呼べば、ゆるゆると上げられる視線。
  その瞼に一つ、口付けを落として。
  そっと、重ねるのは唇。
 
「んぅ……っ」

  舌を差し込めば、他人の、粘膜が触れ合う感触にまだ慣れないのか、繋いだままの手に、微かに力が篭もる。
 それでも、応えてくれる舌先に、零れる吐息に、胸がざわついた。
 
「は………」

  ようやっと、離れた互いの唇を、伝う細い銀糸が、やけにいやらしく見えて、思わず、どちらともなく視線を逸らす。
ちらり、渋沢を伺えば、先程よりも一層、上気した目元が、妙に艶めかしかった。

「なぁ」
「なん、だ」

  また気恥ずかしいのか、微かに上擦った声。
 繋いだ手を引き寄せて、近すぎる距離から、覗き込む、琥珀色の瞳。

「俺といるときは、俺を見ろよ」

  驚いたように、見開かれる琥珀色。
  その視線が、床に放りだされた文庫本を見遣った後、また、三上に戻される。
  そこに浮かぶのは、戸惑いと、罪悪感。

「あ…す、まない。…気が、つかなくて…」
「お前が鈍いのなんかハナから知ってる」
「………すまん」

  いよいよ申し訳なさそうに視線を伏せるから、思わず、笑いそうになる。
 
「だから、これからは、って。な?」

  ふうわりと膨らんだ前髪に、こつん、自分の額を、当てて微笑えば、ようやっと渋沢の目元にも、笑みが浮かぶ。

「うん」

  こくんと頷く、その瞼に一つ、口づけを落としながら。
 さてこれからどうしようかと、三上は止まない雨音を聞きながら、小さく、笑みを零した―。


投げ出された文庫本は、閉じられたまま―。