「何か感想は?」

 揶揄うみたいにそう言ったけど。
 本当は机に着いたその手が、微かに震えていたのを知っていた。




 練習が終わって、いつもの様に、部誌を広げながら、一人二人と帰っていく部員たちを見送る。
 今日は日曜日で、練習は昼まで。
 まだ残って、自主練習に励む奴―当然そんな奴は一人しかいない―がいるのか、ボールを蹴る特有の、耳に馴染んだ音を聞きながら、ペンを走らせる。
 書き終わったら、付きあってやろう。
 目の前で今週号のジャンプを読む金髪を引きずり込んで。

「なぁタツボン」
「何」
「………」

 呼び掛けて置いて、妙に間を持たせるから。
 顔を上げた先、暑さを凌ぐために開け放ったままのドアの向こう。
 梅雨の狭間、嫌みなほどに晴れ渡った青空が見えた。
 日曜日は昼までしか練習しちゃいけないなんて、先生たちは何を考えているんだろうか。

「何だよ」 

 いつまでたっても、口を開く気配の無いシゲに、怪訝に眉を顰めながら問い掛ければ、分厚いマンガ雑誌の向こうから、じっとこっちを睨み付けられ、不覚にも息を呑む。

「タツボンはさぁ、キス、したことある?」

 妙に間を持たせて、その単語を吐き出したのはきっと態とだ。
 俺は少し面食らって、それを悟られたくなくて、視線を部誌に戻す。

「何だよ急に」

 シゲはいつも、唐突な言葉を吐き出す。
 それは悔しいことに、いつも俺の辺りを心臓をざわつかせた。
 今だって、顔が熱いのは、暑さのせいばかりじゃないはずだ。

「答えてや」

 声音にはいつもの揶揄うみたいな響きは無くて。
 何となく、顔を上げなくても、くすんだ色の雑誌の向こうから、睨みつけているのが、分かる。

「ねぇよ」

 短く答えて、ペンを走らせる。
 興味がないわけでも、今までそんな場面に遭遇しなかったわけでもないが、したいとは特に思わなかった。
 「お前は?」とは訊かない。訊いたってムカつく返事しか返ってこないのは、短くない付き合いで知ってるから。

「ふぅん」

 自分から訊いてきたクセに。
 えらく素っ気ない返事に、顔を上げれば、まだ、その目はこちらを強く睨みつけていた。
 一体何でそんな目で見られなきゃなんないんだ。

「何だよさっきから」

 視線と態度と質問の意図が読めない全ての現状に苛立って。
 ソレがそのまま滲む声音で、負けないように睨み付けながら言えば、ジャンプを閉じたシゲが、ずいと、こちらに身を乗り出してくる。
 鼻先が触れ合いそうな、距離。
 不意に縮まったそれに、驚いて、目を見開く。
 近すぎる距離に、シゲの体温が、空気を伝って、俺に届いていた。

「何…」
「俺、今めっちゃタツボンとキスしたいねんけど」

 俺の言葉を遮って、投げつけられた台詞に、一瞬、思考がついて行かない。
 ドアも窓も、開け放っているというのに、風はそよとも吹き込まなくて。
 じわり、汗がシャツの下を流れた。

「何……?」

 コイツは真顔で、何を言い出してるんだろうか。
 またいつもの悪ふざけなら、止めて欲しい。
 こういう冗談は得意じゃないし、何より……何より、仮にも好きな奴に、そんな冗談を投げつけられたくは無かった。

「だって俺タツボンのこと好きやん。やから、キスしたい」

 ああコイツは恥ずかしげも無くよくもそんな事を。
 じっとりと湿った空気が肌にまとわりついて気持ち悪い。
 顔が、熱い。 

「アカン?」

 のぞき込んできた目に、さっきから睨みつけていたんじゃなくて、それは所謂、コイツの『真剣な眼差し』というヤツだったんだと理解する。

「………良いけど」

 ああ俺もどうかしてるのかもしれない。
 此処は部室で、窓もドアも開け放ってて。
 外からは風祭がボールを蹴る音が聞こえてるって言うのに。
 つまり、いつ誰がどこから見てるかもしれない状況なのに、だ。

「………」

 不意に、シゲが体を起こした。
 釣られて、顔を上げれば、鼻孔を掠める、カビ臭い部室の臭い。
 何か言おうかと、口を開きかける前に。
 顎を、指先に掬われて。
 また、さっきよりずっと近くに、シゲの顔が降りてきて。
 ほんの一瞬、視線が交錯した後。
 シゲはゆっくりと、瞼を伏せた。

「…………」

 一秒。二秒。
 金髪の向こうに、梅雨の間の青空が僅かに見える。
 蒸すような暑さに、じわり、シャツの下を汗が伝う。
 閉じられたシゲの瞼は、震えていた。

「………っ」

 不意に、柔らかに濡れた感触が唇に触れて、触れるだけだったソレから、深いものをシゲが欲しているのが分かった。
 気がつけば、唇も歯列も、開いていて。
 口腔内を弄る慣れない感触に、ざわり、背筋がざわつく。

「………んっ」

 舌を、絡め取られて、思わず、シゲのシャツを掴む。
 鼻孔を掠める、カビ臭い部室の臭い。
 ボールを蹴る音が、やけに遠くて。
 風一つ吹き込まないこの部屋が、一層、シゲの体温を俺に伝えている気がした。
 ぐっと、シゲが一層深く、身を乗り出した途端。
 ガタンと、二人の間に合った古い机が、不意に大きな音を立てて。
 はっとしたように、互いに唇を離していた。

「…………」

 何となく、気恥ずかしくて視線を落とす。
 目元が、熱い。
 シャツを引き上げて、口元を覆う。
 ふわり。一瞬、汗の匂いがした。
 唇に、その奥に。
 まだ、残る感触が、やけに生々しい。
 
「何か感想は?」

 揶揄うみたいに言うくせに。
 ジャンプと部誌の間に置かれた手が、震えていた。

「…………」

 真っ直ぐに見上げれば、ふいと、視線を外される。
 その目元が、赤いように見えるのは、俺の気のせいか?

「シゲ」
「なん?」

 シゲの視線は閉じたジャンプの表紙。
 
「緊張したんだ?」

 揶揄うみたいな響きを含ませて言えば、ジャンプの表紙から、俺の顔へと弾かれたように視線が上がる。
 何だよ。図星か。

「俺もだよ」

 そよとも風が吹き込まないこの部屋なら。
 俺の体温も、コイツに伝わっただろうか。

「………初めてん時より緊張したわ」

 ぼそりと呟かれた言葉に、俺は声を立てて笑った。
 開け放ったドアの向こうでは、憎らしいほどの青空が、俺たちを見下ろしていた。