唐突に、響いたのは随分と控えめなノックの音。
  誰だと首を傾げるルームメイトを背中に、ドアを開ければ、所在無げに立っていたのは水野だった。

「水野?珍しいね」
「……ん…」
「……?水野…?」
 
  いつもならすぐに、要件を切り出してくるのに。
  俯き、黙りこくるそのその姿はひどく頼りない。
 微かに、吐息が揺れた気配に、思わず、眉根を寄せる。

「ちょっと出てくる」

 背中のルームメイトに声を掛けて。
 戸惑う肩を、押す。

「…郭…?」

  問い返して来る声は、いつもと違い、随分と頼りない。
  脳裏に、あの見知らぬ金髪がちらついた。

「外の方がいいでしょ」
「……ごめん」

 謝る声が、微かに、震えていた。

「いいから。行こう」
「ん…」
 
  いつもなら、すぐに怒って振り解くのに。
 されるがままの水野の手を引いて、向かうのは人気の無い裏階段。
 しん、と冷えた空気が、少し痛い。

「悪かったな…」

  貧相な光を投げ掛ける蛍光灯の下、コンクリートの階段に腰掛けた水野の、見上げてくる瞳は、まるで縋り付くような色を帯びていて、 不謹慎にも、胸が騒いだ。

「泣いてたの?」
「いや…」

  否定する声が、掠れている。
  強く擦ったのか、赤くなった目元が、少し痛々しい。
  そんな様を、初めて、見た。

「嘘つき。じゃあどうして…」

  言いながら、膝の上で組み合わされた水野の手に、己のそれを、重ねる。
  堅くきつく、組み合わされたそれは、関節が白く浮き出ていた。

「こんなにも手、震えてるの?」

  覗き込んだ紅茶色の眼が、揺れる。
  そのまま反らされ、俯く白い頬に、水野の中の、あの見知らぬ金髪が占める割合の大きさを知らされる。
  少し、悔しい。

「あの、関西選抜の人のせい?」

  問い掛ければ、水野の肩が、大きく、揺れる。
  重ねた手の下、更に、力が籠もるのが、分かった。

「違う。シゲのせいじゃ…」

  『シゲ』。
  誰より親しげな響きをもって呼ばれた名前に、全部が見えた気がして、内心、苦笑を漏らす。
 そう多分、彼の涙は彼自身が流させているのだろうけれど。
 そのきっかけは、紛うことなく、あの金髪。
 
「置いてかれて寂しい?」
「違―――っ」

  反射的に顔を上げた水野の唇に、落とすのは軽く触れるだけの口づけ。
 
「俺なら、一馬や結人に、置いて行かれたら、凄く不安だし、悔しいし…寂しい。…アイツらに『コイツと一緒にいたい』って、思わせる事が出来なかった自分が、凄く悔しいと思うけどな」

  驚いた様に、見開かれた水野の眼が、揺れる。
  くしゃり、歪んだ顔を引き寄せれば、顔を押しつけられた肩口が、濡れた。
  震える肩を、宥めるように撫でてやれば、きつくきつく、シャツを掴んでくる、その耳元に、囁く。

「ねぇ水野、それで当たり前なんだよ。不安で、悔しくて当たり前なんだよ。…それだけそいつが大事だったんだから」

  返ってくる声は、無い。
  ただ震える吐息が、夜の公園に痛々しく響く。
 
「……っけ、ど…」
「うん?」

  嗚咽の向こう。
  小さく、零される言葉に、耳を傾ける。

「アイツが…シゲが…本気、になったのは…すげぇ嬉し、いんだよ…」
「そっか…」
「でも…なんでそれが俺じゃないんだろって…考えたら悔しくて、情けなくて…」
「うん」
「あいつは本気になって、強くなって、俺の目の前に立ってるのに…俺だけ、止まったまんまで…」

  零される言葉に、ただ、頷いてやる。
  吐き出してしまえばいい。
  それが自分の前でしかできないと言うなら、喜んで聞いてやると、郭は思う。

「何で何も言わなかったんだとか、うちのこととか…も、そういうのが全部…悔しくて…」
「うん」

  自分の事に、置き換えてみる。
  これが結人や一馬だったら?
 結人や一馬に、自分一人置いて行かれたら。
  「嬉しい」と、欠片でも思えるだろうか。
 
「すごいね」
「何…?」

  やっと、上げてくれたその頬を、最後の涙が、伝う。
  なんて綺麗に泣くんだろうと、思うと胸が騒いだ。
  こんな風に涙を流させるあの金髪が、すこし、妬ましい。
  そっと、その雫を、親指の腹で拭ってやりながら、向けるのは微笑。

「『本気になったのが嬉しい』なんて言葉、俺なら絶対言えない。不安で、ムカついて、悔しがって、情けなくなって終わり」
「そんな…だって…」

  揺れる視線を、瞼に一つ、口づけを落として、引き寄せる。

「強いね。水野は」
「………強くない」

  気恥ずかしそうに、シャツの袖口で強く、目尻を擦る様に、知らず、笑みを零す。
 
「あの人の前でも、泣いた?」

  夜、自販機の前、二人が話していたのは知っている。
 水野の眉が、むっとした様に寄せられた。

「泣くかよ。泣くわけないだろ。…悔しいじゃん…」

  ぽつんと、呟くように零れた最後の言葉が、ひどく年相応な音を持っていて、思わず、笑い出しそうになってしまう。

「じゃあ、俺の前だけで、泣いてくれたんだ?」

  覗き込むように言えば、かっと、一息に水野の頬に、朱が走る。
  なんて可愛い肯定の仕方をするんだろうと、口角が吊り上がりそうになるのを、必死に堪えた。

「何笑ってんだよ…!」

  どうやら堪え切れてなかったらしい。
  口先だけの謝罪を口にすれば、拗ねるように顔を背けるから。
  まだ赤い耳に、思い切り歯を立ててやった。

「いっ………!?」
 
  何をするんだと、涙目で睨みつけてくるのは、軽く無視して。
 
「まぁ、その気持ちをぶつけるべき本当の場所は、分かってるんでしょ?」

 口角を釣り上げて、笑ってみせれば、一瞬、驚いた様に目を見開いた水野は、けれど、次の瞬間にはしっかりと意志を宿した眼で、頷いてみせた。

「期待してるよ司令塔」
「ふん」

 いっそ傲岸ともとれるような笑みを、形の良い唇に掃く。
 不遜げに笑う眼は、しなやかな強さを、取り戻していて。
 その眼が崩れ落ちた様を思い出して、ぞくり、背筋がざわつく。
 どちらも、ひどく綺麗だと、郭は思う。
 
「今度は俺が理由で、泣いてくれると良いんだけど」

  ぼそりと零せば、聞き取れなかったのか、怪訝そうに眉根を寄せられ、笑顔で取り繕う。

「水野は何をしても綺麗だと思って」
「馬鹿かよ」
 
  呆れたように言うその目元は、泣き腫らしたのとは別の意味で、赤い。
  軽く充血した、まだ濡れた粘膜に、軽く舌を這わせれば、驚いて固まった水野に、一拍後、思い切り鳩尾に拳を叩き込まれて、噎せた。

「戻る」

  立ち上がり、遠ざかる背に、階段の隅にうずくまったまま、手を挙げて応える。
  コンクリートを踏む足音にはもう、欠片も弱々しさは無かった。
  その足音が、不意に、止まる。
  怪訝に顔を上げるのと、くるり、水野が振り返ったのとは、ほぼ同時。

「今日は悪かった。…正直、ちょっと楽になった。ありがとう」
 
  気恥ずかしいのか、ひどく早口にそれだけ、一息に告げると、今度は立ち止まらずに、去っていった。

「………どういたしまして」
 
  呆けたように階段の隅に座り込みながら、声にした途端、漏れるのは笑い声。
 
「…ったく…素直なんだかそうじゃないんだか…」

  くつくつと、押し殺した忍び笑いが、無人の公園に響く。

「本当に可愛い人だね君は」

  誰に受け止められることなく、呟いて。
  立ち上がり、砂を払うと、歩き出す。
 能裏に、思い出すのはあの金髪。
 置いて行かれたなら、追い越せばいい。
 見つけるべきは、歩むべき道。
 水野はもうすぐ、完成された強さを手に入れるに違いない。
 しなやかな強さを秘めた、その背中に負うのは10番。
  その姿を、思い描く郭の口の端には、ひどく楽しげな笑みが、浮かんでいた―。