―ねぇ松之助―

  優しい声。
  懐かしい、と、頭の片隅で思う。
  見上げれば、柔らかに温かい手が、頬を包んでくれる。
  懐かしい。
  母の、記憶。

―人様にはね、受けたご恩だけ、ありがとうって、気持ちだけを、ここに取っておくんだよ―

  優しい手が、とん、とん、と松之助の小さな胸を叩く。
  幼い日。
  意味は、良く分からなかったけれど。
  夜毎日毎、繰り返し言い聞かされる言葉に、こくんと、素直に首を縦に振る。
  そうすれば母はいつも、ひどく優しい笑みを浮かべて。
  ひどく優しく、松之助の頭を、撫でてくれたから。
  それがとても、嬉しかった。
  そんな、幼い日の記憶。

―人にはね、優しくおありなさい。恨んだり、妬んだりしちゃあ、いけないよ。ありがとうって、その気持ちだけ、留めておくんだよ―

  そっと、母の手が、松之助の手を、包む。

―悪い気持ちを持てば、それはきっといつか、お前を苦しめるから―

  こくんと、また、頷く。
  手の平から伝わる、優しい優しい、母の温もり。

―誰より優しくありなさい。…そうすればいつかきっと…―

 


「懐かしい、な…」

  ぽつり、起き上がった布団の上で呟けば、もう起き出していた同僚が、小首を傾げて聞き返してくるから。
  慌て何でもないと笑い返して、起き上がる。
 閉じられたままの障子の向こうが、ぼんやりと明るい。
 随分長い間、居座っていた雨雲も、ようやく、遠くのお山にでも流れたらしい。
  胸の内、反芻するのは、懐かしい、幼い日の母親の言葉。
 どうして今更、あんな夢を見たのか、わからないけれど。
 それはとても暖かく、大切な記憶。

「さて。今日は忙しいのかね」

  誰かが呟いた予想とは裏腹に。
 長雨も明けたというのに。
  その日、回船問屋はひどく、暇だった―。




「兄さん」

  不意に呼ばれた声に、振り返る顔に、知らず、浮かぶのは笑み。

「佐助から、今日は暇だって聞いて」
「身体の調子は良いんですか?」
 
  問えば、返ってくるのは苦笑い。
  どこか辛いのかと、思わず、眉根を寄せれば、慌てて違う違うと手を降られた。

「だ、大丈夫だよ。今日は凄く気分が良いんだ」
「本当に?」

  じっと、顔を覗き込めば、うんざりしたように、溜め息を吐かれてしまう。

「本当だよ。でなきゃ佐助や仁吉が出してくれるわけないじゃないか」

  言いわれ、それもそうかと納得すれば、一太郎が情けないような笑みを零す。

「ねぇ兄さん、だから、八つ時の菓子、一緒に食べよう?」

  上目越しに見上げられ、どうしたものかと背中の番頭を振り返れば、笑って、頷いてくれる。
  知らず、吐いていたのは安堵の吐息。
  断れば、決してそれ以上は強請らないけれど。
  一太郎はひどく、寂しそうな顔をするから。
 それを見るのは、とても、辛い。
 
「大丈夫ですよ」

  笑い頷けば、一太郎の顔に広がる、嬉しげな笑み。

「良かった!じゃあ、行こうよ」

  それは、とてもさりげない仕草。
  一太郎の指先が、松之助の指先を、絡めとる。
  一瞬、戸惑ってしまったけれど。
  きゅっと、決して強くない力で握られただけなのに、結局、振り解く事が出来なくて、指先を絡め返してしまう。
 一太郎の眼が、一瞬、松之助を見上げて。
 ひどく嬉しそうな、照れ笑いを浮かべる。

「今日の饅頭はね、栄吉が作ったんだ」

  たわいない話を、ひどく嬉しそうに話す一太郎。
  それがとても、微笑ましいような気がして。
  知らず、口の端に笑みが乗る。

「形はね、凄く不細工なんだけれど…」

  思い出したのか、僅かに眉根を寄せる様に、思わず、笑ってしまう。

「でもね、味は良い感じの出来なんだ。本当だよ」
「わかりました。栄吉さんが、腕を上げられたのは分かりましたから…」
 
  くんっと、ほんの少し、力を込めて、一太郎の手を、引く。

「もう少しゆっくり歩かないと、疲れますよ」

  微笑えば、驚いた様に自分を見上げた一太郎の目元に、ほんの一瞬、朱が走った様な気がして。

「若だんな?」

  すぐに、視線を逸らしてしまった一太郎を、怪訝に覗き込めば、返ってきたのは笑い顔。

「そうだね。ゆっくり、歩かないとね」
「はい」
 
  二人、並びながら。
  のんびりと、庭を横切る。
  こんもりと繁った紫陽花の葉を伝う、まいまいつぶりなんぞに目を遣りながら。
  松之助はふと、夢の続きを思い出す。

―誰より優しくありなさい。…そうすればいつかきっと…―

  絡めた指先から伝わる、温かな体温。

「仁吉がね、真白い紫陽花もあるって言ってたんだ。いつか二人で見れたら良いね」

  見上げ、笑う一太郎の瞳の奥底、向けられるのは、ひどく優しい色。

―そうすれば、いつかきっと…―

  胸に、満ちるのは、ひどく幸福な想い。

―いつかきっと、お前に千の優しさと、万の幸福が、降ってきますよ―

  思い出す、母の笑顔。

「本当、だ」
「え?」

  何か言ったかと、小首を傾げる一太郎に、何でも無いと首を振る。
  松之助の胸には、温かに優しい想いだけが、満ちていた―。