ずくり、ずくり。
 疼く頬を押さえながら、足早に歩く。
 いつの間にか桜の花はとうに散って。
 肌寒さを残していた空気は、薄紅の花と共に流れた。
 冷たいばかりの雨は大嫌いだが。
 項を焼くほどの、皐月の日差しも、紙が本性の己は、余り得意ではない。

「あの性悪が…」

 吐き捨てる様に呟く唇に、赤が滲む。
 過ぎた軽口に、いつもの様に頬を張られて。
 切れて血の滲んだ形の良い唇は、もしかしたら明日には腫れるかも知れない。
 己を見下ろす、酷薄そうな色を映した眼差し。
 嗚呼厭だと、思うとまた、苛立つ。
 熱を孕んだ日差しが一層、それを煽った。

「夏まで日があるってのに…こう暑けりゃ焼けちまうよ」

 呟きながら、どこかで涼もうと、視線を巡らせれば、見知った社の境内。
 設えられた藤棚に、見事に咲いた真白い花房。
 ふうわり、風が運ぶ甘い香りが心地良い。
 その、真白い花の房の狭間。
 ちらり、見えた真白い尾に。
 屏風のぞきの唇に、笑みが浮かんだ。

「守狐」

 駆け寄り、見上げれば、翳す手に薄緑の影が斑に落ちる。
 ふうわり、頬を撫でる真白い風は、甘やかに涼しく心地良い。
 きっと、屏風のぞきよりも年嵩の藤の古木。
 太く細く、絡まる蔦のその狭間。
 真白い花房が隠しこむように、取り込むように。
 抱かれた真白い影を、屏風のぞきは簡単に、見つけ出す。
 見呼びかければ、ゆうらり、花房の狭間で、狐の尾が揺れた。

「どうした。…また酷くやられたね」

 開いたのか閉じたままなのか。
 良く分からぬ瞳に、見下ろされ笑われて。
 屏風のぞきは、不満げに唇を尖らせる。

「煩いよ。…首が痛い。降りてきなよ」

 見上げたままでは話もし難いと、顎をしゃくれば、くるり、真白い塊が蜻蛉を切って、目の前に降り立つ。
 反動に、がさり、真白い花房が、揺れた。
 途端、一層強く、鼻腔を掠める、藤の匂い。

「此処の白藤は見事だね」
「だろう?上で寝るとね、目の前が真っ白になって、酷く心地良いんだよ」

 笑う守狐に、つられたように、笑う。
 途端、痛む頬に、僅かに、顔を顰めた。
 蘇るのは苛立ちと、ほんの僅かな切なさ。
 一度滲んだそれは、ちくりちくりと、胸を刺す。
 想いを、告げられたのに。
 己に対する仕打ちは、一向変わらないどころか、一層ひどくなっているような気さえ、する。
 打つや殴るは当たり前で。
 つい先日なんぞ、縛られた挙句吊るされた。
 抗い、乱れた裾から、指を這わされて。
 その先を思い出して、かっと、一人頬が熱くなる。 
 耳元、酷薄そうに笑いながら、囁く声はそれでも、肌が粟立つほどに優しかった。

「…ったくあの白牛め…」

 蘇る気恥ずかしさを誤魔化すように、一人ごちる。 

「お前だけだよ。そんな口が利けるのは」
 
 苦く笑う友に、ふんと、鼻を鳴らして。
 その赤く濡れた唇に浮かべるのは、不遜な笑み。

「あたしは付喪神だからね。…誰にへつらうことも無いんだよ」

 整った顔に、いっそそれは似合いすぎていて。
 ただ、苦笑を零す守狐の、ざわついた胸の裡を、屏風のぞきは知らない。

「へえ。言うじゃあないか」

 唐突に響いた声に、屏風のぞきの顔が、ぎくり、強張る。
 守狐が、困ったように、笑った。

「白沢殿」

 白い花房の狭間を潜って。
 覗いた端正な顔に、浮かぶのは酷薄な笑み。
 その切れ長の瞳の奥、自分の姿を認めた途端、分かりやすく滲む苛立ちに、守狐は内心、苦笑する。
 ふうわり、一陣の風が吹いて。
 一層強く香った花が、揺れる間に。
 守狐の姿が、半妖に変わる。

「自分で追い出して探しに来たんじゃあ、世話無いですよ」

 屏風のぞきには聞こえぬように。
 揶揄する様に笑えば、返って来るのはきつい眼差し。
 尖る妖気をまともにぶつけられるけれど。
 にいこりと、笑うばかりで受け流す。

「大事に、してくれないのなら」

 すいと、仁吉との間合いを、詰める。
 鼻先が触れ合おうかという距離にも、眉一つ動かさぬその顔に、向けるのは人好きのする笑み。
 かさり、真白い藤の花が、守狐の頬を撫でた。

「私が貰い受けますよ」

 仁吉の耳に、囁き落とした言葉は、真白い花が隠しこんで。
 屏風のぞきには、届かない。

「必要ない」

 仁吉の手がさも不快そうに、守狐の顔を払い除ける。
 その手が、怪訝そうに二人を見ていた屏風のぞきの手首を、掴みこんだ。

「帰るぞ」
「ちょ…!何勝手なこと言ってんだい。あたしがそう簡単に帰ると思ったら…」
「うるさい」

 ふざけるんじゃないよと、ぎゃあぎゃあと吠え立てる屏風のぞきには一向に構わずに。
 真白い花房の暖簾を乱暴に払うと、市松模様を引き摺り帰る仁吉に、守狐は声を立てて、笑う。
 幾輪か、小さな花が、地面に散った。
 
「好きなくせに」

 相も変わらず不器用な大妖だと、笑う影を、舞い上がる甘い香りが包んでいた。








「痛い。手が痛いったら」

 ぎりぎりと、強い力で引き掴まれた手首が、軋む。
 いくら訴えても、前を向いたままの横顔は、此方に視線すら寄越そうとしない。
 探しに、来てくれたのだと思ったのに。
 一体何なのだと、また、切ないような心地になる。
 まだ、怒っているのだろうかと、見上げた横顔は、相変わらず表情が読めない。

「仁吉さん、離しとくれよ。…逃げやしないから」

 諦めたように、溜息混じりに言えば、言葉も無く手首を掴む指は離れていって。
 少し、赤くなってさえいる手首を擦りながら、ふと、そこに残る縄目の跡に、先日の出来事を思い出し、かっと、また頬が熱くなる。  
 慌てて、袖の中に隠しこみながら、ちらり、傍らの仁吉を見上げれば、気付いた様子は無くて。
 相変わらず前ばかり向く横顔に、内心、吐くのは溜息と悪態。

(何なんだい一体…)

 振り回されてばかりだと、思う。 
 色恋は己の得意ごとだと、思っていたのに。
 かなり悔しいことに、どうやらそれすら、敵わないらしい。

「あんたなんか大嫌いだ」
「ああそうかい」

 呟くように小さく零せば、耳聡く聞きつけられて。
 返って来る気の無い返事が一層、苛立ちを掻き立てて。
 並んで歩くのも癪に障ると、歩みを速めて。
 とたんに、項を焼く日差しに、眉根を寄せる。
 本当に、夏はまだ遠いと言うのに。
 本性が紙の己には、堪えるほどに、日差しは強い。

「先を歩くんじゃあないよ偉そうに」

 不意に、腕を掴まれて。
 引き戻されて、不満に睨みあげた時。
 ふと、日差しが和らいだ事に、気付く。
 今まで、気がつかなかったけれど。
 社を出てからこちら、ずっと、日陰側を歩かされていた。
 日陰が途切れれば、いつの間にか、仁吉の影に置かれていて。

(日に当たらない様に…してくれてる、のか…?)

 真逆。とは思ったけれど。
 それでも、一度気付いたら、それはそうとしか思えなくて。
 
「仁吉さん」
「何だい」

 気付けば、唇には笑みが浮かんでいて。
 切れた痛みも、もう、気にならなくなっていた。

「今回のことは許してやっても良いよ」

 日の当たった横顔を、覗き込むようにして言えば、仁吉は器用に、片眉を吊り上げて。

「生意気言ってんじゃ無いよ」

 後頭を、叩かれたけれど。
 それでも、もう、苛立つことはなかった。

 不器用な優しさでできた日陰を歩く屏風のぞきの口元には、嬉しげな笑みが、浮かんでいた。