意識が浮上する、身に馴染んだ感覚。
まだ閉じていたいと、思う瞼を無理矢理こじ開けて。
薄闇の中、冷え切った空気に顔を出して、今日は休みだったことを思い出す。
布団の中、解きかけた手を、もう一度繋ぎなおして。
そっと、傍らの一太郎の顔を盗み見れば、まだ穏やかな寝息を立てていて。
思わず、笑みが零れる。
昨夜は、除夜の鐘を百八つまで数えるのだと、起きていたけれど。
結局、それは叶わなくて。
悔しそうに閉じられた瞼を思い出して、松之助はまた、笑みを零した。
「………」
視線を巡らせた空気は、昨日までとは違う気がして。
新しい年の空気が、そこに在るような気がした。
きゅうと、起こさぬようにそっと、けれど、しっかりと、手の中の、一太郎のそれに力を込めて。
「今年も…宜しくお願いしますね…」
薄闇に、呟く。
返事は、当たり前に無かったけれど。
松之助の口の端、浮かぶのは、満足そうな笑みで。
常からは考えられない贅沢だけれど。
もう一度眠りの海に沈みこんだ。
ほんの少し、空気がざわついた様な気がして。
意識が浮上するまま、目を開けば、新年の空気が、そこにあった。
気配を探れば、なるほど、部屋の外は少し浮ついている空気が流れているようで。
傍らに視線を巡らせて、其処に、まだ瞳を閉じたままの松之助を見つけて、一太郎は微かに、目を見開いた。
「…そうか…今日は…」
休みだ。
部屋にはもう、十二分に朝日が差し込んでいるのに、まだ、己の傍らには松之助がいる。
それだけでもう、今日と言う日が特別なのだと、一太郎に伝えていた。
自然、口元に浮かぶのは嬉しげな笑み。
明るい日の中で、松之助の寝顔を見れる機会など、滅多に無い。
と言うより、初めてだった。
「………」
未だ、己の手に絡んだままの、松之助の手を、起こさぬようにそっと、握り返して。
母親似だと言われる自分と、松之助とでは、似ていないのだと思っていたけれど。
どこか寂しく、思っていたけれど。
よく見れば、似ている部分も見つけられて。
よく考えれば、当たり前のことなのだけれど。
それでも、嬉しかった。
「…ん…」
見詰め過ぎたか。
松之助の睫毛が、微かに震えて。
ゆっくりと、開かれる眼は、未だ焦点が定まっていなくて。
己に視線を返すその瞳は、ひどく危うく見えて。
思わず、どきりと、胸が鳴った。
「…ち…たろ…?」
寝起きの、掠れた声は、少し舌が回っていなくて。
常では見れないその姿は、ひどく無防備で。
思わず、掠めるように口付けを落としてしまったけれど、寝起きの頭はついていかないようで。
「………?」
ぼんやりと不思議そうに見返され、つい、笑ってしまう。
「明けましておめでとう」
新年の挨拶を口にすれば、ふわり、松之助が、笑う。
今年、一番初めに見るそれは、ひどく綺麗に、一太郎の目に映った。
「おめでとう」
「今年も宜しくね」
笑い告げれば、一瞬、松之助が僅かに、目を見開いて。
何かを思い出したように笑う。
「…?兄さん…?」
「こちらこそ。宜しくお願いします」
笑う、その意味は教えてくれなかったけれど。
きゅっと、己の手を握りながら向けられた笑顔が、思わず、見惚れるぐらい綺麗だったから。
一太郎はどうでも良くなってしまった。
するりと、繋いだ手を解いて。
絡ませたのは、松之助の首筋。
その肩口、擦り寄るように、顔を寄せた。
「…い…一太郎…?」
少し、戸惑うように名を呼ばれ、向けるのは笑い顔。
「今日はずっと、一緒にいようね」
見れば、松之助の目元、微かに朱が走っていて。
僅かに頷きかけたその目が、何かを思い出したかのように、見開かれる。
「若だんな、今日は皆で初詣に行かれるのでは?」
口調は、もう常のそれに戻っていて。
それに少し、不満を抱いたけれど、思い出した事実は、それを口に出させるほどの余裕を与えてはくれなかった。
「大変だ。すっかり忘れていたよ」
二人、慌てて布団から抜け出た途端、からりと、襖が開けられる。
「若だんな、明けましておめでとうございます」
揃う声は、一太郎の耳に馴染んだそれで。
大方、襖の向こうで、起きるまで待っていてくれたのであろうそれに、僅かに覚えるのは気恥ずかしさ。
「あ…お、めでとう」
「おめでとうございます」
応える声は、一太郎も松之助も、いっそ笑えるほどに、上擦っていた。
身支度を手伝ってくれる佐助と、巧く目を合わす事が出来ず、ちらり、松之助を盗み見れば、向こうも同じだったようで。
視線が合えば、交わすのは、照れ笑い。
「御節はこちらに運んでもらいましたから」
「ありがとう」
火鉢に炭を入れながら、仁吉が視線で示す先、並ぶ重箱に、一太郎は早くも胃が重くなるのを感じ、内心で小さく、溜息を吐いてしまう。
そんな自分に、新年早々この様かと、また溜息。
「あ、ではあたしは一度部屋に戻ります」
「え…」
松之助の言葉に、思わず漏れた声は、己でも驚くほどに、寂しそうで。
傍らの佐助が苦笑を零す。
「松之助さんの分の膳もありますから」
困ったように笑い告げられ、松之助が、照れたような、困ったような表情で小さく礼を言った。
その袖を、くいと、引く。
引き寄せた耳元、落とすのは囁き。
「今日はずっと一緒って、言ったじゃあない」
さっと、一瞬、松之助の目元に朱が走ったのに、一太郎は満足そうな笑みを零す。
さりげなく、絡ませるのは互いの指先。
「ね?」
上目越し、念を押すように、けれど、愛らしく小首を傾げる一太郎に、松之助は困ったように笑いながら、それでも小さく、頷いてくれた。
その瞳の奥に、確かに嬉しげな色を浮かべて。
「今年は良い年になりそうだよ」
小さな呟きは、暖められた部屋の、真新しい空気に、溶け消えた―。