「さ…佐助さん」

 廻船問屋の店表、振り返った先に、一人の青年の姿を見とめ、佐助は屈託の無い笑みを、その顔に浮かべた。
 客で賑わう人並みを縫って、近づく。 
 
「いらっしゃい、今日は何がご入用で?」
「あ…あの…」

 青年の身なりは、ここ、長崎屋の若だんなに引けを取らぬほど、上等なもの。
 廻船問屋の上客だった。
 自然、佐助の対応も丁寧なものになる。

「ん?」
 
 口篭る青年の顔を覗き込めば、かすかに頬が赤い。
 
「―――っ」

 急に縮まった距離に、青年は驚いて半歩、後退る。
 間口の柱に、背が、ぶつかる。
 肩が触れたのか、隣で品物を見ていた客が、迷惑そうに眉を顰めた。
 けれどそれにも、青年は構う素振りを見せず、ただじっと、佐助を見上げる。
 
「お客さん?」

 小首を傾げる佐助に、青年が思い切ったように、口を開きかけた。



「……気に食わないね」
 思わず、呟く。
 藤兵衛に呼ばれた帰り、何気なく覗いた廻船問屋の店先に、相方の姿を見つけたは良いが、どうも雰囲気がおかしい。
 佐助は気づいては居ないようだったが、青年の赤く染まった頬が、熱のこもった目が、佐助に寄せる想いの強さを物語っている。
 自然、仁吉の形のいい眉が、寄せられる。
 青年の、その思いつめた横顔から察するに、思いのたけをぶつけに来たのか。

「…ちっ」

 舌打ち。
 思い切ったように青年が口を開きかけたその時、仁吉は一陣の風を呼んだ。



「わ…っ」
「…っ」

 突然吹き荒れた風に、発せられかけた言葉が、飲み込まれる。
 通りに近い店表に居た二人はまともに、舞い上げられた埃を食らう。

「―痛っ」

 その埃が、目に入ったのか、佐助が右目を押さえ、低く呻いた。

「だいじょ…」
「おやぁ佐助、どうしたんだい」

 心配げに手を伸ばされた青年の手を、仁吉の白々しい声が、遮る。
 青年と佐助の間に、さりげなく割って入りながら、痛みに顔をしかめる佐助に、その白い手を伸ばす。

「あ、仁吉。…いや、目に埃が入って…痛っ」
「馬鹿だね。擦っちゃ駄目だよ。目を傷つけるじゃないか。…どれ、見せてみな」

 言いながら、佐助の手を退けさせ、ぐっと顔を近づけると、その両の頬を挟み込み、右目を覗き込む。
 生理的な涙で潤んだそれは、埃の所為か、少し赤い。
 痛いのだろう、すぐに目を閉じようとする佐助を、仁吉の声がひどく優しく、嗜める。

「目を閉じたら見れないだろう」
「痛いんだからしょうがないだろ」
「我慢しなよ。…ほら、あたしの目を見て」

 囁く様なその艶のある声に、傍で聞いていた青年の背筋が、ぞくりと粟立つ。
 当の佐助は、慣れているのか、言われたとおりじっと、仁吉の目を見つめ返した。
 ほとんど鼻先が触れ合わんばかりの距離で、まるで見つめ合うような形を取る二人に、仁吉の視界の端、戸惑う青年が映る。

「あー…あったよ。こりゃあ痛いだろう」
 
 苦笑交じりに呟く仁吉。
 そのままつっと、その形のよい唇を、佐助の顔に寄せる。

「上見て…」
 
 それは、まるで閨で囁かれているのではと思うほどの、艶のある声。

「ん」

 けれどやはり慣れているのか、顔色一つ変えずに、佐助は言われるがまま、その視線を、天井へと向ける。

「―――っ?」

 己の目の前の光景に、呆然と声も出ない青年を、視界の端に留めながら、仁吉はそっと、己の舌先を、佐助の右目に、這わす。
 柔らかく濡れた舌先が捉えた異物を、器用に掬い取ると、懐紙に吐き出した。 

「ほら、取れたよ」

 言って、佐助の頬に添えた手を放す。
 何度か瞬きを繰り返し、完全に取れていることを確認した佐助は、にこりと、屈託ない笑みを仁吉に向けた。

「ありがとう。助かったよ」

 その言葉は、ひどく自然で。
 先の行為に、全く疑問を感じていない、むしろ当たり前という様な空気さえある。

「あ…あの…」

 ようやく、忘我の状態から立ち直ったのか、青年が躊躇いがちに声をかけてくる。
 あれだけやったのにまだ居たのかと、仁吉は内心、舌打ちを漏らす。

「おや、お客さんがいらっしゃったのかい」

 さも、今青年の存在に気づいたというように、白々しいまでの笑顔を貼り付け、人から綺麗だと賞賛を受ける顔に、一等受けが良い、白々しいまでの笑顔を貼り付け、青年に視線を投げる。

「ああそうだった。すみませんね」
「いえ…―っ」

 向き直った佐助の肩越し、己に壮絶な流し目を送る仁吉に気付き、青年の言葉が、中に浮く。
 仁吉の、その形の良い白く細い指が、そっと、僅かに触れない距離で、佐助の首筋を、意味深に辿る。
 
『人のもんに手出すんじゃないよ』

 声にならぬ言葉を聴き、青年はただ、言葉を亡くす。
 
「……」

 にやり。
 佐助の背で、形のいい唇を吊り上げる仁吉の笑顔に、青年の背に、ぞっと走り抜ける悪寒。
 人の、笑顔というものがこんなにも恐ろしいと感じたのは、生まれて初めてだった。

「えっと…何がご入用で?」

 怯えたように目を見開く青年の顔を、訝しげに覗きこむ佐助。
 青年の本能が、警鐘を鳴らす。

「あ…すみません…ま、また来ます」

 敵う訳が無い。
 しょんぼりと肩を落として踵を返す背に、仁吉は満足げな笑みを浮かべた。
 晴れた日を跳ね返す、通りの白土が、ひどく、青年の目に沁みる。
 じゃりっと、一歩を踏み出したときだった。

「お客さん」
「―――っ」

 艶のある、恐ろしい声に呼び止められ、まだ何かあるのかと、恐る恐る、振り返る。
 いつもの、人好きのする笑みを浮かべた仁吉が口を開く。

「どうぞ今後とも…ご贔屓に…」
 
 最後の言葉が、僅かに低められたと感じたのは、気のせいか。
 ほとんど涙目になりながら、青年は刻々と頷くと、足早に去って行った。

「…金子を忘れたのかね?」

 小首をかしげ、その後姿を見送る佐助に、仁吉は「さてね」と、そっけなく返し、さっさと薬種問屋へと、戻る。
 その形のいい唇が、底意地の悪い笑みを、満足げに浮かべていたのを、見た者は居なかった。