「寝ませんねぇ」
こそっと、零れた守狐先生の言葉に、佐助先生は困り顔です。
松之助くんがお布団の上に、座り込んだまま、心配そうに、窓の外を見ています。
お隣に、いつもある一太郎君のお布団が、今日はありません。
一太郎くんは、からだがとっても弱いので、昨日からお熱が出てしまって、幼稚園をお休みしているのです。
松之助くんは、しんぱいで、しんぱいで。
いつも、一緒に居る一太郎くんがいないと、何だかとっても、不安な気持ちになるのです。
「松之助くん」
にがわらいの佐助先生にお名前を呼ばれて、松之助くんは慌てて、お布団に横になりました。
今はお昼寝の時間です。
寝なくちゃいけないのは、松之助くんだって、わかっているのです。
「………」
それでも、それでも。
どんなにやさしく、背中をとんとんしてもらっても。
どんなにやさしく、子守唄を歌ってもらっても。
松之助くんは、ちっとも眠くなりません。
「いちたろぅ…」
ちいさなお声で呟いてみても、お返事は返ってきません。
お外で遊ぶ時間になっても、松之助くんはずぅっと、ずぅっと、窓の外を見ています。
「あぁ、こら仁吉…!」
「おやおや…」
仁吉くんが、かだんのお花を、ひっこぬいてしまいました。
佐助先生と、守狐先生が、慌てて、そちらにかけよります。
「松之助、松之助」
くいくいと、松之助くんのスモックを、誰かが引っ張ります。
ふりかえると、屏風くんが、狐さんをだっこしたまま、立っていました。
「今のうちに、一太郎のとこに、行くんだよ」
そういって、ぐいっと、松之助くんに、狐さんを、押し付けてきました。
松之助くんが、びっくりして目を見開いていると、屏風くんは、はやくちに言います。
「それ、一太郎にかしてあげる」
「あ、ありがとう」
「はやく、はやく」
屏風くんにせかされて、松之助くんは、狐さんを抱っこしたまま、慌てて、窓からうらにわへ、ぬけだしました。
上から、屏風くんが、松之助くんのお靴を、投げてくれます。
こんなこと、していいのかなぁっと、ちょっぴり不安になったけど。
でも、でも、一太郎くんが、心配です。
だって、もう二日も、お顔を見ていないんのですもの。
一太郎くんがお熱を出すと、いつも、松之助くんは会わせてもらえなくなります。
それはとっても、さびしくて、不安です。
「いちたろ…」
はしって、はしって。
そうっと、幼稚園のうらにある、園長先生のおうちの窓を覗きます。
松之助くんと、一太郎くんは、園長先生のお孫さんです。
松之助くんと、一太郎君のお父さんと、お母さんは、お仕事で遠くに出かけることが多いので、松之助くんたちは、園長先生のおうちに、お泊りすることが多いのです。
だから、今も、一太郎くんは、園長先生のおうちで、寝ています。
「…一太郎…」
窓から覗いたその先に。
ベッドで寝ている、一太郎くんが、見えました。
ほっぺはまっか。お顔も何だか、ねむっているのに苦しそうです。
「一太郎っ!」
一太郎くんは、松之助くんがいないと、眠れません。
松之助くんが、とんとんしてあげないと、眠れないのです。
今も、もしかしたら、眠れないのかもしれません。
「よいっしょ、っと…」
からからから…。
そうっと、窓を開けて、お靴を脱いで。
お部屋の中に、入ります。
「いちたろぅ…」
そうっとそうっと、お名前を呼んだら。
一太郎くんが、お目を開けてくれました。
「にいたん…」
お声が、すっかりガラガラ声です。
息も、なんだかくるしそうです。
うさぎさんみたいな、真っ赤なお目めで見つめられて、松之助くんは、むねがきゅうっと、苦しくなるような、きもちがしました。
「くるしいよぅ…」
小さなお手てが、松之助くんのお手てを、握りしめます。
いつも、ひんやり冷たいお手てが、今日はぽかぽかしています。
松之助くんは、なんだか、こわいような、泣きたいような、すごくすごく、不安なきもちに、なってしまいました。
「待っててね、まっててね…」
何度も何度も、泣き出しそうなお声で繰り返して。
きゅっと、一太郎くんのお布団に、ふかふかの狐さんを押し込むと。
松之助くんは、もう一度、窓から抜け出します。
お靴を、履いたら、いっしょうけんめい、走ります。
うらもんを、くぐって、道路をわたって。
坂道をはしって、息が、切れても、走って、走って。
「あ…っ!」
途中で、転んでしまいました。
お手てが、じんじん痛みます。
お膝から、じんわり、血が出ています。
「……っ!だいじょうぶ、だいじょうぶ…」
痛くて、怖くて、泣き出しそうだったけど。
なんども、なんども、そう呟いて。
松之助くんは、立ち上がると、また、走り出しました。
あんよを、曲げるたび、お膝がじんじん痛みます。
しゃがみこんで、いたいようって、泣きたいです。
でも、松之助くんは、お兄ちゃんだから。
ぐっと、がまんして、走ります。
「あの、あの…これ下さい」
角を曲がったところにある、お店屋さんに。
息せき切って、かけこみます。
いつもの場所に、置いてある、ぎゅうにゅうを、お店の人に、わたします。
「はい、345円ね」
「あ……」
言われて、初めて、お金を持ってくるのを、忘れたことに、気がつきました。
何かのときにって、園長先生が持たせてくれた、おこづかいが入っているおかばんは、教室に置いたままです。
ぽけっとには、青いおはじきと、緑のおはじきしか、入っていません。
「おかね、わすれちゃった…」
「あららあ…じゃあ、あとでお母さんと、買いにおいで」
困ったように笑いながら、お店のおばさんが、あたまを撫でてくれます。
「おかあさん、いないもん」と、松之助くんは、こころの中で、思いました。
これでは、ぎゅうにゅうが、買えません。
一太郎くんに、はちみつをいれた、あったかいミルクを、作ってあげたかったのに。
前に、幼稚園で、松之助くんが、お熱を出した時。
佐助先生が、作ってくれた、はちみつ入りの、あったかいミルク。
それはとっても、甘くて、やさしくて、元気の出るあじだったから。
作って、あげたいと、思ったのに。
「ふぇ…」
これでは、作ってあげることが、できません。
一太郎くんを、元気にすることが、できないと思った松之助くんは、悲しくて、怖くって。
不安で、不安で、とうとう、泣き出してしまいました。
「あらあら…困ったわねぇ…」
お店のおばさんが、困ったような、声を出します。
後ろにならんだ、お客さんが、めいわくそうに、松之助くんを、みおろします。
誰も、たすけてくれません。
涙が、あとから、あとから、溢れてきます。
「松之助くん…!」
息せき切って、お店に飛び込んできたのは、佐助先生です。
松之助くんを、探しにきたのでしょう。
「おやおや…幼稚園抜けてきてたの」
おばさんが、びっくりしたように、松之助くんと、佐助先生を、かわりばんこに、見つめました。
「うちの園児がご迷惑をおかけしました」
おばさんに、ごめんなさいをする、佐助先生を見て、松之助くんは、なんだかじぶんが、とっても、とっても、わるいことをしたような気持ちに、なりました。
「佐助せんせー…」
佐助先生に、手を引かれて。
お店を出ると、佐助先生はしゃがみ込んで、松之助くんと、視線を合わせてくれました。
怒ってると、思ったのに。
佐助先生はだまって、松之助くんを、ふうわり、抱っこします。
「大丈夫だよ。…一太郎くんは、きっと、良くなるから」
そう言って、とんとん、とんとん。
優しく、背中を叩かれて、松之助くんは、また、ぼろり、涙が零れてしまいました。
ずっと、ずっと、不安だったのです。
もう二度と、一太郎くんと、会えなくなるんじゃないかとか。
夜、眠っている間に、誰か一太郎くんを、つれていってしまうんじゃないかとか。
考えると、こわくて、こわくて、たまらなかったのです。
でも、松之助くんは、おにいちゃんです。
大人はみんな「お兄ちゃんが、しっかりしなきゃ、ダメだよ」って、言います。
だから、泣いたり、怖いなんて、言えなかったのです。
本当はずっと、怖かったのに。
本当はずっと、泣きたかったのに。
「佐助せんせー…」
「うん?」
ゆっくり、ゆっくり、幼稚園に向かって、歩きながら。
佐助先生は優しく、松之助くんを、覗き込みます。
「一太郎が、お熱出したのね。あれね……僕のせいなの…」
ひっく、ひっく。
しゃくりあげながら、勇気を出して、うちあけます。
ずっと、ずっと。こころの中に、ひっかかって。
息が、苦しくなるくらい、ひっかかっていたことが、涙と一緒に、あふれてしまいました。
「僕がね…一太郎が、いるのに、お外で遊びたいって、思っちゃったからなの…」
一太郎くんは、からだがとっても弱いので、あまりお外で遊べません。
一太郎くんは、松之助くんがいないと、泣き出してしまって、お咳が止まらなくなってしまうので、松之助くんも、あまりお外で遊ばないで、一太郎くんの傍に、ついていてあげます。
いつもは、それでも平気なのですが。
たまあに、たまあに、お外で走り回るお友達を見ていると、いいなあって思うときが、あるのです。
そう、思った次の日、一太郎くんは、お熱を出してしまいました。
だから、松之助くんはずうっと、ずうっと、自分のせいだと、思っていたのです。
お兄ちゃんなのに、一太郎君を置いて、遊びに行きたいって思った、自分のせいだと、思っていたのです。
「僕が、悪い子だから…一太郎が、お熱出しちゃったの」
ほっぺたを、後から後から、涙が伝います。
きゅっと、佐助先生の肩を、握りしめて。
松之助くんは、お顔を埋めて、泣きじゃくります。
「ごめんなさい…ごめんなさいぃ…いい子にするから、いい子にするから、一太郎、元気にして…」
何度も、何度も、繰り返せば、佐助先生の大きな手が、優しく、優しく、松之助くんの背中を、撫でてくれます。
「あのね、松之助くん。一太郎くんが、お熱を出したのは、誰のせいでも、無いんだよ」
「………?」
「最近、急に寒くなったでしょう?だから、一太郎くんのからだが、びっくりして、お熱を出しちゃったんだ」
「ほん、とに…?」
僕は、わるくないの?
一太郎は、元気になるの?
松之助くんが、いろんなぎもんで、いっぱいの目で、佐助先生を見上げると、佐助先生は笑って、頷いてくれました。
「だから、言ったろう?一太郎くんは、すぐに元気になるって」
「よかったあ…」
ほっとしたら、また、涙が出てきました。
でも、もう、怖くも、悲しくも、ありません。
松之助くんはほっとして、こてんと、佐助先生の肩に、頭を乗せます。
「それとね、松之助くんも、一太郎くんも、まだ、小さい子どもなんだよ」
「僕、おっきいよ。お兄ちゃんだもん」
いつも、まわりの大人は、松之助くんに、そう言います。
「お兄ちゃんだから、おっきいんだから、がまんしなきゃ、ダメだよ」って、言います。
「確かに、松之助くんはお兄ちゃんだけど、でも、まだ、子どもなんだよ」
「うぅん…?」
なんだか、よく、分かりません。
首を傾げてしまう松之助くんに、佐助先生は、優しく笑って、言いました。
「だからね、がまんしなくて、良いんだよ」
「え……?」
そんなこと、初めて言われました。
びっくりして、思わず、お目めを見開いてしまいます。
「こわかったら、こわいって、言えばいいし、泣きたかったら、泣けばいいし、お外で遊びたかったら、そう言えばいいんだよ」
「でも…だって…」
松之助くんが、一太郎くんのそばを離れたら、一太郎くんは、泣き出してしまいます。
そうすれば、お咳が止まらなくなって、お熱が出てしまいます。
それは、とっても、大変なことです。
「一太郎くんには、先生達がついてるから」
にっこり、笑う佐助先生は、すごく、安心できます。
松之助くんは、なんだか、こころがすこうし、軽くなったような、気がしました。
「それからね…抱っこして欲しい時も、言えばいいんだよ」
「………!」
佐助先生は、ずっと、気付いていたのです。
本当は、ずっとずっと、松之助くんも、抱っこして欲しいと、思っていたことを。
本当は、ずっとずっと、甘えたいって、思っていたことを。
なんだか、ほっぺが熱いです。
「言えるよね?」
優しく、覗き込まれて。
松之助くんは、真っ赤なほっぺで、小さく、頷きました。
それから後は、良く覚えてません。
幼稚園まで、あと少しだったはずなのに。
安心したら、急に眠くなってきて。
気がついたら、お迎えの時間でした。
「兄たん!」
「一太郎っ!」
園長先生の、おうちに戻ると、一太郎くんが、起きだしていました。
まだ、様子を見なければいけないので、幼稚園には、行けませんが。
お熱が下がったので、お布団から出れるようになったのです。
「兄たん、兄たん」
「いちたろぅ…」
ぎゅうっと、久しぶりに、一太郎くんを、抱きしめます。
あったかくて、どこか、甘いにおいが、します。
「一太郎、松之助、はちみつミルクが入ったよ」
「「はあい!」」
園長先生で、お祖父さんの、伊三郎さんが、二人を呼びます。
二人仲良く、お返事をして。
松之助くんは、しっかりと、一太郎くんのお手てを繋いであげて、お台所へ、急ぎました。
ふうわり、ふわふわ。
あまあい、あまあい、はちみつミルクは、あったかくて、やさしくて。
元気が出る、あじが、しました。