春の夜の、穏やかな空気が、部屋を満たす。
火鉢ももうそろそろ用無しかと、佐助は思案した。
「なぁ佐助」
その背に、声が掛かる。
とんとんと、文机の上に出しっ放しにされた紙を整えたりして。
馴れ馴れしいそれに、暫く、無視を決め込んでいたけれど。
「なぁ、ちょいとっ!聞こえてるんだろうっ?」
ぎゃんぎゃんと、あまりにも五月蝿いから。
仕方なさそうに、溜息を一つ、吐いて。
「なんだい」
向き合えば、「聞こえてるならとっとと返事をしろ」と、唇を尖らせるのを、井戸の底を仄めかして黙らせる。
けれどすぐに、この生意気な憑喪神は気を取り直したのか。
軽い衣擦れの音と共に、本体から抜け出た半身を畳の上に寝そべらせた。
ばさり、布団を広げれば、その上で鳴家たちが楽しそうに跳ねる。
知らず、佐助の眼も、和む。
その背に、行儀悪く、頬杖をつきながら、屏風のぞきが喋り始めた。
「仁吉さんは、守狐と仲が悪いのかい?」
思わず、振り返れば、小首を傾げる屏風のぞきが、そこにいて。
寄せられた眉根に、本気で言っているのが分かり、佐助は内心、呆れてしまう。
守狐が屏風のぞきを好いているのは誰の眼から見ても明白で。
当然仁吉が良い顔をするわけが無い。
逆に、なかよししこよしと、笑みを交わす二人を、うっかり思い描いてしまい、佐助は一人、背筋が寒くなってしまった。
「知らないよ」
けれど、守狐は、己の想いを告げる気は無いようだから。
素知らぬふりを、してやってみる。
素っ気無く返せば、屏風のぞきが、思い出したように不機嫌そうに顔を顰めた。
「だってこの間だって守狐が薬を届けに来た途端、一息で機嫌が悪くなったしさぁ…今日だって…」
言いながら、己の後頭を擦る。
「社の裏で守狐と話してたら、いきなり殴り付けられてこっちに連れ戻されるしさぁ…」
―確かに、仁吉も…ちょっと余裕が無さ過ぎるねぇ…―
続いた、予想通りの言葉に、思わず内心、零してしまう。
仮にも齢千年を優に越す白沢様だ。
それがこの様というのは、少々情けないように、佐助は思う。
知らず、視線が風呂の方へ流れた。
―まぁ…色恋と言うのはそういうものかもしれないしね…―
半ば無理矢理に、そう結論付けて。
行李から一太郎の夜着を、取り出すことで、視線を引き剥がす。
「守狐の方は特に何も思っちゃいないみたいなんだよ。…仁吉さんは何が気に入らないんだろうねぇ?」
「本人に聞いてみれば良いだろう」
「聞いたさ」
聞いたのか。
自分で振っておきながら。
思わず、驚きに目を見開いてしまう。
―勇気があるというのか鈍すぎるというのか…―
多分後者だろうと思い、逆に鈍すぎるから勇気ある行動に出られるのかもしれないと思い、鈍感というのは恐ろしいものだと、一人思う。
考え込む佐助を無視して、屏風のぞきは喋り続ける。
「そしたら物も言わずに殴られたよ」
―そりゃあ、そうだ―
頷きかけるのを、どうにか堪えて。
不満げに唇を尖らせるのに、視線を向ける。
「まぁ…それだけ仁吉がお前さんを好いてるって事だろうよ」
「…な……っ」
事も無げに吐き出せば、面食らった様に目を見開く屏風のぞき。
その目元が、微かに朱に染まるのには構わずに。
佐助は布団の端を整える。
その時、からりと障子が開いた。
「行儀の悪い事してんじゃあ、無いよ」
途端、叱責が飛ぶ。
いつもなら、此処で屏風のぞきが噛み付いて行く所だけど。
今日は仁吉の顔を見るなり、物も言わずに屏風の中に引っ込んでしまった。
その目元は、まだ、朱い。
小首を傾げる仁吉には構わずに。
湯冷めしないうちにと、佐助は早々に一太郎を布団の中に放り込む。
「何かあったのかい?」
小声で、聞いてくるから。
小さく、漏らすのは笑い。
「何も。…若だんなが心配なさることは、何もございませんよ」
安心させるように笑いかければ、つられたように、一太郎から笑みが漏れる。
そっと、行灯の灯を、落として。
常夜灯の薄闇が、部屋に落ちる。
「それじゃあ、あたしらはこれで」
「うん、おやすみ」
二人並んで、部屋を辞す。
去り際、相変わらずそっぽを向いたままの屏風絵に、仁吉が声を掛けた。
「屏風のぞき」
視線が、仁吉に向けられる。
「後で部屋に来な」
声音は、ひどく素っ気無いくせに。
視線には、ひどく優しい色が、滲み出ていて。
「気が向いたらね」
生意気に返す声にも、奥底、どこか嬉しそうな色が、滲んでいた。
「仁吉」
互いの部屋に入る寸前。
向けられた顔に、向けるのは苦笑。
「「仁吉さんは守狐と仲が悪いのかい?」ってさ」
途端、苦虫を噛み潰したように顔を顰めるのに、思わず、笑ってしまう。
「それで?」
「知らないとは答えておいたよ」
「そうかい」
眉根を寄せたまま、思案するように俯く横顔に、珍しく、揶揄するように、笑ってみる。
「あんまり扱いが酷いと、守狐殿に掻っ攫われるよ」
「…無いね。あいつはあたしのものだもの」
驚いた様に眼を見開いたのは一瞬で。
すぐに、切れ長の目は、余裕を湛えて、笑うから。
佐助が呆れたように、目を見開いた。
「…まぁ、屏風も誰よりお前さんを好いてるみたいだしね」
己の部屋の障子をひき開けながら。
事も無げに零せば、面食らった様に目を見開く仁吉がそこにいて。
思わず、佐助が面食らった。
その表情は、つい先程の誰かと良く似ていて。
「似てるよ。お前たち」
「は?」
訳が分からないという様に、眉根を寄せるのには構わずに。
小さく笑みを零しながら、佐助は己の部屋へと引っ込んだ。
ぱたんと、後手に障子を閉めて。
暗闇の中、そっと、目を閉じる。
―まぁ…―
色々と面倒くさいけれど。
「皆が幸せならそれでいいさね…」
呟いた口元には、ひどく穏やかな微笑が、浮かんでいた―。