その日は何故か、巧くできなかった。
 簡単にこなして来た、慣れた行為だったはずなのに。
 本心なんて、押し隠して当たり前だったのに。
 その日はやたらとそれが外に出たがって。
 圧し殺して、躱す術なんて、もうとっくの昔に身に付けたはずだったのに。
 そんなことをすれば、大嫌いな面倒ごとが、山のように覆いかぶさってくるのは目に見えているのに。
 その日は何故か、出来なかった―。




 人を小馬鹿にしたような、無駄に軽快な音楽に、叩き起こされて。
 放課後の掃除の時間を知らせるそれだと気付くのに、そう時間は掛からなかった。
 うっすらと埃の積もった床板が、目の前に伸びる。

―なんや…結局一日サボってしもたんかいな…―

 随分とぼんやりした頭をよぎるのは、どうせなら来るんじゃなかったと、軽い後悔。
 薄汚れた窓から見えるのは、とうに真上を過ぎてしまった太陽。
 のそりと、勝手に敷いたダンボールから身を起こすと、軽く埃を払って伸びをする。
 床板の上に、ダンボール一枚敷いただけで寝ていたものだから、全身が軋む様に痛かった。
 人と関わるのが面倒臭くて、朝からずっとサボりを決め込んでいた、物置と化した準備室を出る。
 人気の無い階段をだらだらと降りながら、今日はもう帰ってしまえと思う。
 踏み潰した上履きの踵が、ぺたんぺたんと、一段降りる度に、間が抜けた音を立てた。
 窓から差し込む光を鈍く反射させる、ノリウムの廊下。
 ぼんやりと歩いていると、後から不意に、野太い声に呼び止められた。
 反射的に、眉間に皺が寄る。
 
「佐藤!何だその黄色い頭はっ!」

 それをどうにか押し隠して、作るのは笑い顔。

「いややわぁ先生ぇ。これ地毛ですって」

 装うのは、軽い口調。
 湧き上がるのは、苛立ち。
 何時もなら簡単に圧し殺せたそれが、出来なくて。
 そのことにまた、苛立つ。

「ふざけるな!大体お前みたいな奴がいるから他の生徒まで…」

 口角に唾を溜め、随分と広い額に青筋を浮かべて怒鳴り散らす教師の横っ面を、今此処で思い切り殴り倒してやりたいと、不意に、そんな衝動に駆られた。 
 ぎゅっと、右の拳に力が入る。
 
「まぁまぁ先生…。校則で特に規定も無いですし」

 唐突に響く、柔らかい声。
 振り返れば、香取が、そこにいた。

「香取先生!いくら校則で規定が無いからと言ってこれは…」
「あら。これも一つの個性だと思いますけど。…ねぇ佐藤君」

 くるりと、振り向き様に自分に向けられた笑顔にさえ、嫌悪感が湧く。
 右側から差し込む、ガラス越しの光が、黒い学生服に吸い込まれ、熱い。
 今此処で、この二人の目の前で、このガラスを叩き割ったらどうなるだろう。

「そうやで先生ぇ。今はそういう時代やで」

 怒声。悲鳴。衝撃。
 簡単に想像の付くそれに、吐き気がした。
 どうにか、適当に笑って、適当に誤魔化して。
 自制心が途切れる前に、その場を離れる。
 
「怠ぁる…」

 思わず、溜息が漏れた。
 笑って、誤魔化して、取り繕って。
 その全てに、ひどい倦怠感と苛立ちを感じる。
 ぺたんぺたんと、歩くたびに、音を立てる潰れた踵。
 廊下の角を曲がった途端、そこに見慣れた人影を見つけ、その音は止んだ。

「タツボン…」

 向かい合う水野の眉間には、深い皺が刻まれていて。
 一日中サボっていたから、何か言われるのは目に見えている。
 また、漏れそうになる溜息を押し殺す。

「…お前、さっき生活指導の先生に捕まってただろ」

 けれど、水野の口を吐いて出てきたのは、そんな言葉だった。

「なんや、見とったんかいな。…助けてくれてもえぇのに。薄情やなぁ」

 けらけらと、笑う。
 また、沸き起こる苛立ち。
 早く帰りたいと、強く思う。
 知らず、奥歯をきつく噛み締めていた。
 
「………俺の前まで良い顔すんの止めろ」

 低く、吐き出された言葉に、思わず、目を見開く。
 驚いて見返せば、怒りと、ほんの僅かに寂しげな色を滲ませた瞳に睨みつけられて。
 けれど、すぐに逸らされ。
 水野はそれ以上何も言わず、目の前に立つ自分を押し退けるようにして、たった今シゲが通ってきた廊下を角を曲がって行ってしまった。
 その手に持たれた荷物の多さから、これから部活に向かうのは間違いなくて。

「……っ…はは…っ」

 不意に、込み上げてきたのは笑い。
 壁に寄り掛かり、ずるずるとその場に座り込む。
 ホームルームを終え、一斉に教室から開放された生徒達が、怪訝そうな視線を投げてきたけれど。
 構わず、声を立てて笑い続けた。
 
「敵わんなぁ…」

 普段は呆れるぐらいに鈍いくせに。
 こんなところは妙に鋭くて。
 
「ホンマ敵わんわ…」

 呟き、一頻り笑い終えたところで、ゆっくりと立ち上がる。
 脇に転がしたままの荷物を拾い上げ、曲がるのは、先程水野が消えた角。

「さてと…タツボン揶揄いに行こか…」

 おそらくはまた、眉間に皺を寄せて、一人で苛立っているに違いない。
 容易に想像できるその様に、零れる一人笑い。
 ぱたんぱたんと、音を立てる踵は軽く。
 あの苛立ちも、消えていた―。