がたんと、大きな音と共に、身に走った衝撃に、沖田の意識は、強制的に引き上げられる。
 日当たりのいい窓際最後部。
 一等席で眠り扱けていた学ランの背中は、随分と温かい。
 どうやらいつの間にか、授業は終了していたらしい。
 ぬっと、まだぼんやりとした視界に差し出されたのは、二枚の手書きチケット。
 随分と騒がしい教室内に、そう言えば今は文化祭準備期間だったと、思い出す。
 
「買え」

 随分と近い距離から、にこやかな笑顔と共に差し出してくるのは、一つ上の原田。
 その整った顔の横で揺れる三つ編みに、沖田は思わず、眉根を寄せた。
 見れば、自分の椅子の淵に掛けられたのは、ルーズソックスに包まれた、均整の取れた筋肉質な脚。
 恐らくこれに蹴飛ばされて、自分は起こされたのだろう。
 その先を辿れば、紺色のプリーツスカートが揺れていて、反射的に眼を閉じそうになったところを、また椅子を蹴飛ばされて阻まれる。

「寝るなコラ。チケット買ってから寝ろ」
「いつから女装趣味になったんですか。どんな性癖を持とうが自由ですがね。人に迷惑掛けちゃあいけませんよ」

 迫る顔を押しやりながら言えば、誰が女装趣味だと、結構な力で叩かれた。
 その少し窮屈そうなセーラー服の胸元で揺れるプラカードには、『3−1 喫茶 池田屋』と、カラフルな絵の具だかペンキだかで、描かれていた。
 
「うちのクラスは男女制服交換で喫茶店やるんだよ。喫茶店。軽食ドリンク付で四百円だ」

 「安いだろう買え」と続く言葉に、沖田はうんざりと、溜息を付く。
 
「嫌ですよ。私だってお金無いんだし」
「…買わねぇのかよ」
 
 胡乱げに睨みつけてくる原田に、はっきりと、頷いてみせる。
 見れば周りでも、他クラス他学年の生徒が、各々の模擬店だの何だのの引換券を、売り捌きに来ている。
 浴衣姿だの、今流行のメイド姿だのの女生徒や、中には明らかな男子生徒だので、教室は一種異様な空間になっている。
 メニューも良く分からない喫茶の引換券など、買う気にはなれなかった。
 第一、 接客がこの原田みたいな厳つい女の子なんて、絶対に嫌だ。

「ふぅん」
「…何ですか」

 含みの有る笑みを浮かべる原田を、今度は沖田が、胡乱げに睨みつける。
 不意に、背後を振り仰ぐと、教室後方のドアに向かって、原田が叫ぶ。

「トシさんっ!」
「はぁ!?」

 思わず、机に貼り付けていた上体を、引き剥がす。
 腰が半分、椅子から浮きかけていた。

「何だよ」

 不機嫌さを全面に出した顔面を出したのは、紛れもない土方で。
 その小作りな顔のサイドに、ウィッグだろう。
 綺麗な長い黒髪が、流れていた。
 その姿は、原田と同じ、この高校の女子用指定制服。
 紺に白のライン、赤いスカーフのセーラー服。
 クラスメイトのものを借りているのだろう。長身の土方には、スカート丈が随分と短くなってしまっている。
 その、濃紺のプリーツから伸びる、男にしては少し細いけれど、女にしては少し筋肉質な、均整の取れた白い足を、此方は濃紺のソックスに包んでいた。
 清楚系に纏め上げられたその姿は、よく、似合っているのに。
 履き潰した自前の上履きが、妙に浮いていた。
 その、少し丈の足りてない白い三本ラインに包まれた手首から伸びる手は、隣のクラスの生徒の胸倉を、威勢よく引っ掴んでいて。
 原田のように厳つい、典型的文化祭女装男子ではないのに。
 良く、似合っているのに。
 その姿は何処からどう見ても、土方その人だった。
 
「総司がチケット買わねぇって」
「あぁ?」

 途端、眉間の皺が、一層、深くなる。
 綺麗に切りそろえられた前髪の下から睨みつけられ、何故か、とくり、胸が騒いだ。

「ちょっと待ってろ」
 
 言い置いて。
 引っ掴んだままの隣のクラスの生徒に、向き直る。 

「古高、八百円だ」
「…いや、俺は…」
「あ?」

 ばさり。濃紺の裾を翻して。
 景気良く挙げられた膝が、ぐっと、沖田の同級生、古高の鳩尾に、押し付けれらる。
 零れ出た太腿には、捲り上げたジャージ。
 それが何だか少し、残念に思えて、沖田は内心で小さく、溜息を吐く。
 
「八百円。だ」
 
 ゆっくりと繰り返される言葉と共に、膝に体重が掛けられているのが、傍目にも分かる。
 騒がしかった教室の空気が、いつの間にか凍り付いていた。

「…釣り、は…いりません」

 苦しげな呼吸の下から、差し出されたのは千円札ではない紙幣。
 無言でそれを引ったくり、クラスから支給されたらしい『料金袋』と大きく書かれた布袋に無造作に突っ込むと、くるり、此方に向き直った。
 
「買え」
 
 差し出されるのは、原田のものと色違いの手書きチケット。
 メニューが違うのか、値段の欄に倍の八百円と書かれていた。

「土方さんが接客してくれるんですか?」
「あぁ?」
「するに決まってんだろ?A定のタダ券かかってんだから」

 にこにこと笑い告げられる原田の言葉に、土方を見遣れば、相変わらず不機嫌そうな顔面のまま、仕方なさそうにこくんと一つ、頷かれた。
 
「文化祭における模擬店その他各クラスの出し物において、最高売り上げを叩き出せば、クラス全員に一学期間の、食堂A定食のタダ券、更に、最高貢献者には一科目においてのみ、追試験及び補習授業免除」

 滔々と並べ立てられた説明に、そういうことかと、合点が行く。
 でなければ土方が、こんな役回りを引き受けるわけが無い。
 
「なるほどね。…そう言えばそんな事山南さんが言ってましたね」

 経費が掛かるだの、補習免除はやりすぎだのと、零していたのを思い出す。
 それにしても。

「似合ってますよ」
「うるせぇ殴るぞ」

 にこり、笑い告げれば、一息に言って、綺麗に切りそろえられた前髪の下から、睨みつけられる。
 うっとうしげに、慣れぬ長い髪を掻き揚げる仕草に、馬鹿みたいに胸が騒いだ。

「土方さんには短いのより長いのが似合うと思うんですがねぇ」
 
 言いながら、冗談混じりにスカートの裾を軽く払えば、反射的に、土方の指が押さえ込む。
 思いがけない強い反応に、驚いて視線を上げれば、思い切り良く、膝蹴りを入れられそうになり、寸での所で、躱す。
 その目元は、微かに朱が走っていて。
 常に無い姿に、思わず、息を詰めた。 

「馬鹿。今時ロング履いてる女子なんかいるかよ」
「買えばいいじゃないですか」
「経費掛かるだろうが」

 呆れた様に言う原田に、だったら自分が出すと言えば、半ば本気で、土方に蹴りを入れられそうになり、流石にそれは痛いので、押し黙る。

「清河のクラスがメイド&執事喫茶なんて胡散臭ぇのやるんだよ」
「あの男女、正面切って『土方君のクラスには負ける気がしない』なんて喧嘩売ってきやがって」

 思い出したのか、ひどく不快そうに顔を顰める土方に、A定よりもそっちが本当の理由なんだろうと、見当をつける。
 土方の隣のクラスの委員長、清河とは、ひどく仲が悪い。
 
「ま。あっちは豚か人かもわかんねぇような不細工ばっかだからな」

 ふん、と、勝ち誇った様に鼻を鳴らす土方は、確かに綺麗な顔立ちをしている。
 多分、校内の誰よりも。
 原田だって、その派手な顔立ちは女子の受けが良い。
 お互い、己の使い道を知りすぎるぐらいに良く、知っているから質が悪いと、思う。
 対する清河のクラスは、目鼻立ちが整っていると言えるのは清河唯一人だ。
 その点を、飛び道具的ネタで客を集めたいのだろうけれど。
 経費が掛かりすぎているように、思う。
 どちらにしろ、純売り上げは、高が知れている。
 現に、土方たちの背後のクラスメイトの中からでも、羨望の視線を投げてくる女生徒がいるのに、沖田は気付いていた。

「で?」
「はい?」

 視線を上げれば、差し出されるのは先ほどのチケット。
 仕方なく、机の横に引っ掛けた鞄から取り出すのは、己の財布。

「釣りはいいから」
「いや、下さいよちゃんと」

 千円札を勝手に引き抜く土方の手首を掴んで、料金袋に手を伸ばせば、そこに入っているのは紙幣ばかりなのに、気付く。
 呆れて見上げれば、土方はにやり、口角を吊り上げるだけ。
 形の良い唇に浮かぶ、人の悪いそれに、ぞくり、背筋がざわついた。

「ま、こういう副収入もあるわけ」
「…なるほど」

 代わりに原田から、百円玉を二枚、受け取りながら頷く。
 恐らく、相当な額を儲けているのだろう。

「恐喝で訴えられても知りませんよ」
「誰が。人聞きの悪い事言うんじゃねぇよ。…なあ古高?」

 背後で、クラスメイトと談笑していた古高の顔が、引き攣る。
 人の悪い笑みを向けられ、こくこくと首を縦に振る様は一見哀れだけれど。
 その瞳の奥、微かに愉悦の色が滲んでいるのを、沖田は見逃さなかった。

―…あの人…そんな趣味があったのか…―

 近づけないようにしないと。と、心密かに、思う。
 
「さて、と。…次は斉藤だな」
「…斉藤?」

 姿が見当たらないかの人に、そう言えば自分が、己がクラスの引換券を売り捌きに行かせたのを思い出す。
 せっかく、追い払っているのに。
 土方の今のこの姿を、見せたくは無い。

「斉藤の分、私が出します」
「…総司が?」

 怪訝そうに見下ろしてくる土方に、財布からもう一枚、千円札を出して押し付ける。

「釣りはいりません」
「…まあ、金が入るならいいけどよ」

 訝しげに小首を傾げながら、それでも、大人しく料金袋へと仕舞うのに、ほっと、安堵する。

「じゃ、そろそろ戻るか」
「だな。…いつまでもこんな形してられねぇ…」

 零す土方に、原田が声を立てて笑う。
 二人、並んで去っていくのを見送って。

―さて。…どんな接客をしてくれるんですかねぇ…―

 値段以上のサービスは、してもらいたい。
 濃紺のセーラーに、土方の白い肌は、一層映えて。
 揶揄えば、まだ捨てきれない羞恥があるのか、微かに目元に朱が走ったのを、沖田は見逃さなかった。
 きつく、睨みつけながら。目元を染める様は、どこか扇情的でさえ、あったように思う。
 丈の短いスカートから伸びる、しなやかに長い脚も、滅多に、見られるものでは、無い。
 あの姿がもう一度、見れるのだ。
 手の中のチケットを弄びながら、文化祭当日を思い、沖田は一人、笑みを零した。



『喫茶 池田屋』近日開店。