いつの間に雨が上がったのか、外が静かになっていた。
蔀戸を上げると、ゆるく湿った空気と共に、鼻腔を擽る香りがあった。
「梅が咲いたみたいだ・・・」
その言葉に、白沢は顔を上げる。
「どれ・・・」
並んで立つと、確かに、梅の凛とした香が流れてきた。
「見に行ってみようか・・・」
呟く顔を見遣れば、どこか嬉しそうで、白沢は微笑して頷いた。
湿った簀子から直接、庭に下りる。
濡れた草花が、足を濡らす。
柔くなった土が、草履の跡をくっきりと残していく。
湿った空気は、それでも、晴れた日の冴え渡った寒さを、和らげてくれている。
少し重苦しいような、そんな天気も、白沢は嫌いではなかった。
こんな日は、花の香も強くなる。
梅の木を見つけるのに、そう時間は掛からなかった。
「ほぅ・・・見事なもんだね・・・」
思わず、呟く。
隣の犬神は、声も無く見上げていた。
雨に濡れて黒々と光る幹は、大きく枝葉を広げ、満開に咲かせた白い花を、重たげに雨に濡らせていた。
「すごい・・・」
強い香りを放っているのに、犬神が嫌わないのはその香に他の花々と違い、べったりと纏わり付く様な甘さが無いからか。
そっと、犬神の指先がその白い花弁に触れる。
柔らかなそれは、雨の雫で犬神の指先を濡らした。
その雫を、何気ない所作で舐めとった犬神は、一瞬、驚いたように目を見開いた後、己が指先を白沢にも差し出してくる。
「ただの雨の雫なのに・・・花に触れただけなのに甘いよ」
言われ、差し出された手を取り、その指先に舌を這わすと、確かに、舌先が微かな甘みを捉えた。
「な?」
「本当だ・・・神の庭の木は常とは違うのかね・・・」
呟き見上げるその白梅は、ひどく美しく、高貴ですらある。
その時、一陣の風が吹いて、二人の頬を撫でていく。
風が雫を散らし、二人の上に降り注ぐ。
白い花弁が幾枚か、空を舞った。
一層、強くなる梅の香。
「・・・っわ」
「・・・っ」
顔に掛かった雫を払いながら、何気なく犬神を見遣った白沢は思わず、その狩衣の袖を掴んでいた。
「・・・白沢?」
訝しげに小首を傾げる犬神に、はたと我に返り、慌てて手を離す。
「な、何でもないよ」
言えはしなかった。
一際強くなった梅の香の中に、その白い花弁の中に、犬神が呑まれていくような気がしたなどと。
そんなことはある訳が無い。
「変だね。どうしたんだい」
笑い声と共に、不意に白沢の手が、温もりに包まれた。
驚いて見遣ると、照れたように笑う犬神。
「あんまりにも不安そうな顔してたからさ・・・」
「そんな顔してたかい・・・?」
思わず、自分の頬に手を当てる。
そんな様子に犬神は笑って頷いた。
「・・・・・」
溜息が出る。
自分はどうも、この男の前では感情が表に出やすいらしい。
いつもは全部を覆い隠すことなど容易いのに。
「白沢・・・?」
今度こそ心配げに眉根を寄せて顔を覗きこんでくる犬神に、無言で首を振り、不安を否定してやる。
微笑み、きゅっと絡ませた指先に力を込めると、握り返してくる手が温かい。
繋がった箇所から流れ込んでくる体温に、どちらとも無く零れる笑い。
分厚く垂れ込んだ雲の隙間から、一筋の日が、差す。
ゆっくりと、晴れ間が覗く。
白い花弁が、日の光を浴びて、煌いた。
濡れた幹も、瑞々しい光を帯びる。
はっきりと濃くなった二人の影のちょうど真ん中、白い花弁が一枚、重なった影の中に落ちた―。