「白沢、なあ」

 呼びかけてくる声も。
 熱に掠れた、甘い吐息も。
 全てが無自覚で、それは余りに、無防備で。
 白沢はぐっと、手指を握り込む。

「なんだい酔っ払い」

 苦笑交じりに、珍しく絡んでくる手指を、振り解く。
 
「いつもなら朝まで寝るくせに」

 揶揄する様に笑いながら。
 そっと、柔らかな髪を梳けば、むっとしたように、犬神が唇を尖らせる。

「酔ってないし、寝てない」
「はいはい。酔っ払いは皆そう言うんだよ」

 苦笑いを浮かべる琥珀色の瞳の、真ん前を。
 ひらり、ふうわり、薄紅が舞う。
 妖狐たちに花見に誘われて。
 断ればいいものを、飲めぬ酒の杯を重ねた犬神は、案の定、早々に酔った。
 寝潰れた犬神の頭を、膝に乗せて。
 揶揄する守狐を無視して、一人、杯を空けるうちに、一匹二匹と、妖狐たちは姿を消して行き。
 真ん丸い月が、頭上に掛かる頃には、白沢と犬神しか、桜の下にはいなかった。

「もう、帰ろうか」

 耳の根元を掻いてやりながら。
 微笑いながら問いかければ、膝の上の顔が、ふいと、横を向く。
 
「犬神?」

 怪訝に問いかければ、ごろりと、寝返って。
 ぐいと、白沢の腹に、顔を埋めてくる。

「どうした。眠いなら寝間で…」
「…眠くない」
「じゃあ何だってんだい。ごねるんじゃあ無いよ」

 苦笑交じりに言っても、返事は無い。
 
「…って……」
「うん?」

 珍しく、口の中で呟くように零れる小さな声に、そっと、耳を寄せる。
 
「約束したのに…」
「約束?」

 はて、何のことだと、小首を傾げて。
 記憶の底をさらってみるが、生憎と、浮かび上がってくるものが無い。
 眉根を寄せる白沢を、信じられないものを見る眼差しで見上げて。
 犬神はどこか怒った風に、急に身を起こした。
 はらり、その動きに合わせて、幾枚かの薄紅が滑り落ちる。

「もういい。帰る」

 言いながら立ち上がったその足が、ふらついて。
 咄嗟に腕を取って支えれば、やはり、不機嫌そうに払い除けられてしまった。

「何なんだいさっきから。忘れちまったもんは仕方ないだろう」

 その、あんまりな態度に。
 思わず、詰る様に言えば、先を行く犬神の足が、止まる。

「白沢が言ったんだろうが」
「だから何を」

 いい加減、焦れてきて。
 問い掛ける声に、苛立ちが滲む。

「……っ、桜が咲いたら…二人で見に行こう、って、お前が…」

 言われた言葉に、目を見開く。
 そう言えば、まだ硬い蕾のころに、そんな事を言った様な気が、しないこともない。

「言った、ような気がするねぇ…」

 呟くように言えば、思わずといった風に、犬神が勢い良く振り返る。
 きつくきつく、睨みつけてくるその目元は、夜目にも赤くて。

「もう知るか!」

 怒鳴る犬神に、その真意に。
 知らず、笑みが浮かぶ口元を、手で覆う。
 つまり。

「あたしと二人で、花見がしたかったんだ?」

 揶揄する様に覗き込めば、犬神の瞳が大きく、見開かれて。
 鼻に皺を寄せて唸る様が、既に白沢の言葉を肯定していた。
 それはひどく、愛しい。
 
「初めからそう言えば良いのに」
「言えるか馬鹿」

 先を行こうとする手を、引き止めて。
 思わず、抱きすくめながら、困ったように笑う白沢に、犬神がぼそり、呟く。
 その声音は、相変わらず不機嫌そうだけれど。
 絡む腕を、拒む気配は無い。

「お前は全然、覚えてないみたいだったし…」
「悪かったよ」

 知らず、零すのは苦笑。
 だから、自棄になって、飲めぬ酒を重ねたのだろうか。
 そう思うと、また、愛しさが増す。

「犬神」

 きつく、手を引いて。
 向けられる背を、振り向かせる。

「花見、やり直そうか」

 抱きすくめて、その耳元に囁き落として。
 微笑を向ければ、犬神は小さく、頷いてくれた。


 ゆらり、ふうわり。
 薄紅の花弁が月の光に洗われ、白く舞っていた。