「おやまぁ…」

 襖を開けた向こう、己の居間の真ん中、寝転がる派手な市松模様に、伊三郎は思わず、目を見開いた。
 敷いていた座布団を枕代わりに二つに折って、規則正しい寝息を立てる横顔は、ひどく心地良さげで、知らず、目元が和む。
 すぐ傍に放り出された、与えてやった囲碁の指南書に、伊三郎は僅か、申し訳なさそうに眉尻を下げた。
 視線をやれば、碁盤の上の碁石は、中座した時のまま。
 屏風のぞきとの対戦中に、来客があり、すぐ戻るからと部屋を出たのだけれど。
 あれからもう随分、刻が経ってしまった。
 その間に、待ちくたびれたか。
 自分が入って来たのにも気付かず、眠り扱ける憑喪神に、小さく、笑みを零した。
 あんまりにも、心地良さそうな寝顔は、起こすのも忍びなくなってくる。

「悪かったねぇ…」

 呟き、行李から取り出したのは、己の羽織。
 真逆妖が、風邪を引くとは想わないけれど。
 薄い方が、流れ込む初秋の風に、寒そうに見えたから。
 ふわり、掛けてやる。

「ん…」

 小さく、身じろいで。
 やはり、少し寒かったのか、屏風のぞきの細い指が、羽織を引き寄せる。
 再び、穏やかな寝息を立て始めた憑喪神に、伊三郎は微かに、笑みを零して、文机の帳面に、向かい合った。




 ふと、部屋の外に気配を感じて、顔を上げる。
 見ればもう、障子の外は随分と暗い。
 傍らの屏風のぞきはまだ、寝息を立てていた。

「入っておいで」

 笑って、招けば、部屋の影から、真白い姿を現したのは守狐。
 眠り扱ける屏風のぞきを見つけて、呆れたように溜息を吐いた。

「まったく…此処にいたのか」

 それでも、姿が見えないことを心配していたのか、呟く声には、安堵の色が、滲んでいた。
 寝顔を見下ろす瞳の奥、ひどく優しい色が滲んでいるのを、伊三郎は知っていたから。

「探してたのかい?悪かったねぇ」

 眉尻を下げれば、構いませんと笑われる。
 さて、と、未だ眠り続ける市松模様に向き合って。
 細い前足が、その白い頬に、掛けられた。

「こら、起きろ。…寝るんなら屏風の中か布団にしな」
「んぅ…」

 うっとうしげに眉根を寄せて、逃れる様に、羽織を引き寄せる屏風のぞき。
 そのぐずるような様に、思わず、声を立てて笑えば、守狐は仕方なさそうに溜息を一つ。
 
「起きろったら。鈴君だって夕餉の時間なんだよ」

 薄い肩を何度か揺すられて。
 ようやっと、屏風のぞきの瞼が、うっすらと開く。
 
「もりぎつ、ね?」

 まだ意識は、夢と現を彷徨っているのか、焦点の定まらぬ両の目が、ぼんやりと守狐を見上げる。
 掠れた声で、名前を呼ばれ、守狐が小さく、笑みを零した。

「起きたかい?…ほら、戻ろう。鈴君も夕餉の時間だ」
「………。ん?」

 気怠げに一つ、頷いて。
 のそり、身を起こした、市松模様の肩から、羽織が滑り落ちる。
 見覚えのないそれに、怪訝そうに小首を傾げる屏風のぞき。

「あぁ。私の羽織だけどね。…よければ貰ってってくれないかい?」
「旦那の…?」

 屏風のぞきの白い指が、羽織を拾い上げる。
 黒地に裾に紅梅があしらわれたそれは、人から貰ったものだけれど、伊三郎には少し、若い気がして。
 あまり袖を通していなかった。
 けれど。

「良いのかい?」
 
 伺うように、羽織を掲げ、小首を傾げて訊いてくる屏風のぞきには、良く似合っていたから。
 笑って、頷いてやる。
 寒がりの憑喪神には、丁度いいだろう。

「あぁ。お前さんには、良く似合ってるよ」
「そうかい?」

 笑い告げれば、嬉しそうに袖を通す様が、微笑ましくて。

「似合っているよ。…これから寒くなる。良かったじゃあないか」

 守狐に着せ掛けてもらいながら、視線で伺えば微笑いながら言われ、屏風のぞきが機嫌よさげに立ち上がる。
 思い出したように切れ長の眼が、碁盤を捕らえた。
 
「あぁ…。勝負の途中だったんだっけ」

 随分、待たせてしまったから。
 何か、言われるかと思ったけれど。
 思った以上に、機嫌が上向いているらしく、「勝負は明日だね」と、笑いながら言われ、小さく、安堵する。
 
「また明日」
「うん」

 上機嫌の笑い顔のまま、頷く様に、つられ、笑みが零れる。
 部屋の影へと姿を消す一人と一匹に、小さく、手を振って。
 伊三郎はそっと、いつの間にか、随分と暗くなった部屋の裡に、灯を燈した。




 はぁ、と吐いた息が、すぐさま、白く染まる。
 ふうわり、冷たい風に乗って、流れてくるのは、梅の匂い。
 帰りに、一太郎の為に一本、手折ってきてやろうかと、思案する。

「ほら、これ」

 言われ、振り返れば、羽織を差し出す守狐。
 促されるまま、袖を通せば、温かい。
 随分と昔、寝扱けた自分に、伊三郎が着せ掛けてくれたものだ。
 あれからずっと、大事に大事に、とってある。

「懐かしいねぇ…」

 目を細めながら、大事そうに、羽織の袖を撫でる屏風のぞきを見守る、守狐の眼は、ひどく優しい。
 
「あの時の碁の勝負は、どっちが勝ったんだっけねぇ…」
「さぁて、ね…」

 甘酒が飲みたいと、屏風のぞきが言い出したから。
 ついでに菓子も買ってくるからと、一太郎に小遣いを貰って、二人、並んで歩き出す。

「きっとあたしが勝ったに決まってるさね」
「はいはい」

 笑いながら受け流す守狐を、軽く小突く。
 それでも漏れる忍び笑いが気に食わないから。
 ぎゅっと、人のそれとなった指先に、己の手指を絡ませ、引き寄せる。
 ほんの一瞬、掠めるように触れた唇を、舐め上げれば、糸のように細い目を、驚いた様に見開く守狐に、満足げに口角を吊り上げる屏風のぞき。
 
「行くよ」
「…まったく…」

 勝ち誇った様な笑みを浮かべ、絡ませた手指はそのままに、歩き出す屏風のぞきの背中で、守狐が苦笑を漏らす。
 頬を撫でる冷たい風に、しっかりと羽織の前を合わせながら。
 身を包んでくれる、変わらぬ温もりに、屏風のぞきの口元には、小さく、笑みが浮かんでいた―。