苛立っている。
 ぴりぴりと痛いほどに、肌を刺す妖気に、屏風のぞきは珍しく、本体の中から出るに出られず、ただ目の前の事の成り行きを見守っていた。
 
「………」

 キリきりと、胃の腑が痛むような気がして、知らず、鳩尾に手を宛がう。
 話があると守狐がやって来て。 
 仁吉と二人、向き合って座ったきり、黙り込んだままもう随分長い時間が過ぎたような気がする。
 痛いほどの沈黙が、部屋を支配していた。

「で?随分長ぁいこと掛かってるみたいですが?…おたえが泣くほど」

 ようやっと口を開いたかと思ったら、最後は妙に声を低めて、守狐が仁吉の顔を覗き込む。
 組んだ腕を、自身の指先が一定の間隔で叩く。
 総身から滲み出す苛立ちとは正反対の、にいこりと向ける笑い顔が、怖い。
 その笑い顔を鬱陶しげに払いながら、仁吉は憮然とそっぽを向いた。

「……こっちだって色々考えることがあるんです。…何せ相手は神だ」
「………神、ねぇ…。考えた先が、幼子と小妖の守りですか」

 守狐の言葉に、仁吉が目を剥く。
 その黒目を、猫の様に尖らせて睨みつけてくるのにも構わずに、守狐は更に言葉を続けた。

「……成る程確かに、随分と頭を使われたんですねぇ。私には到底、出来そうにない」

 言葉とは裏腹、鼻先でせせら笑うのに、今にその細首をへし折られるんじゃないかと、屏風のぞきはひやり、己が事でもないのに、嫌な汗をかく。
 頼むから余所でやってくれと、祈るような心地だ。

「おまけに犬神殿は十日も寺で寝扱けていただけだとか。えぇ全く本当に、凡夫には及びもつかないお知恵だこと」

 口元を白く細い指先で被い隠して。
 けらけらと笑う守狐。
 部屋に満ちる妖気が、最高潮に尖る。
 無言で立ち上がった仁吉に、ひっ、と、喉を鳴らしたのは屏風のぞきだった。
 仁吉自身の事だけならまだしも、佐助の事を出すのは、絶対に拙い。
 自分では大した盾にはならぬだろうが、仁吉に想い人が八つ裂きにされる前に助けねばと、守狐と仁吉の間に飛び込んだ時。

「………あれ?」

 つい、間が抜けた声が漏れる。
 てっきり喉を切り裂くなり、首をへし折るなりしてくるかと思った仁吉が、守狐の傍をすり抜けて、縁側から直接、庭に降りた。

「おや、お出掛けですか?」
「……若だんなの光は、我らが必ず取り返す。…引っ込んでなよ目細」

 肩越し、睨みつけてくる目は、ぞっとするほどに冷たい怒りを湛えていて。
 ぞっと、本能的な怯えが、屏風のぞきの背に走る。
 けれど、まとも、その怒りを向けられたはずの守狐は、相変わらずにいこりと、空恐ろしい笑みを浮かべただけだった。

「…はあ……」

 仁吉の背が、闇に解けたのを見送って。
 屏風のぞきの口から、魂の抜けるような安堵の息が、漏れる。
 傍らで守狐が、苦い笑いを零した。
 そこには、先程まで纏っていた怒気は無い。

「信じられないよ…」

 詰る声が力ない。
 
「ちょっと発破を掛けて差し上げようと思ってね」

 涼しい顔でのたまう、目の前の目細に、屏風のぞきは一層重い溜息を吐き出した。

「随分心配をかけたみたいだね」

 ぽんと、肩に置かれた手に、屏風のぞきはぐったりと総身から力を抜く。
 その表情は、疲れきっていた。

「まったく…おたえが大事なのは分かるけどね…あたしゃお前の首がへし折られやしないかひやひやしたよ…」
「白沢殿も其処まで馬鹿ではないだろうさ」

 さらりと、命知らずな言葉を聞いたような気がしたが。
 もう嫌だ疲れたと、聞かぬふりで、屏風のぞきは己の体重を、ぐったりと守狐に預けた。

「疲れた…」
「そんなに心配してくれたのかい?」

 嬉しげな声音に、胡乱気に視線を上げると、声音のままの表情が、そこにあって。

「知るか」

 何となく、悔しくて視線を逸らす。
 本当に、己は寿命が縮むほどに心をすり減らしたというのに。

「嬉しいよ」

 きゅっと、抱きすくめられて。
 ちゅ、と、軽い音を立てながら、次々と振ってくる口付けがくすぐったい。
 
「やめろってば。くすぐったいよ」

 言う、その口元にはもう、笑みが浮かんでいた。

「なぁ屏風のぞき」
「うん?」

 髪を梳いてくる手が心地良い。
 つい、目を閉じてしまっていた目を開いて見上げれば、ひどく愛しげな色を浮かべた視線と、ぶつかった。

「いきなり飛び出してきたのは、庇ってくれようとしたのかい?」
「――−っ」

 かっと、目元に朱が走る。
 けれど今更、嘘を吐いても、もう遅い。
 
「そうだよ。お前は細っこいから、あの性悪大妖相手だと、簡単にやられちまうんじゃないかと思って、心配してやったのさ」

 気恥ずかしさを誤魔化すように嘯けば、きゅうと、一層強く、抱きすくめられた。

「愛しいよ」
「…あたしもだよ」

 じゃなきゃあんな真似するもんかと、心の中で呟いて。
 屏風のぞきは、降りてきた唇に、己から舌を差し出した。