見慣れた背。
 何気なく、いつもと同じ調子で、呼びかける。
 
「仁吉」

 聞こえていないのか、それは振り返ることが無くて。
 声が小さかったかと、少し大きな声で、呼びかけても、それは振り返ることが無い。
 また、悪ふざけでもしているのかと。

「おい、聞こえてるんだろう?」

 その肩に、手を掛ける。
 強引に振り向かせた顔は、怪訝そうな色を浮かべていて。
 思わず、こちらが、目を見開く。

「にき…」
「誰だい。お前」

 投げつけられた言葉には、不審げな色が、浮かんでいて。
 一瞬、言葉を呑む佐助の手を、さもうっとうしそうに、払い除ける。

「仁吉…?」
「だから誰だと訊いているでしょう。…人違いじゃあないですかね?」
 
 そう言って、向けられたのは人好きのする笑み。
 それは時折現れる、厄介な客に向けられるものだと、佐助は知っている。
 一体、どうしたと言うのだろう。
 まるで本当に、佐助のことなど知らぬという風な。
 戸惑う間にも、仁吉は再び、背を向けて。
 歩き出してしまうのに、慌てて、手を伸ばす。

「仁吉…!」

 叫んだつもりだった己の声は、掠れるほどに小さく。
 喉に絡んだそれに、はたと、目を覚ます。
 目の前には、見慣れた部屋。
 腰に回された、いつもの位置にある仁吉の手に、どこか、安堵して。
 随分な夢だったのだと、一つ、溜息。 

「仁吉…」
 
 くるり、その腕の中で身体を反転させて。 
 向かい合った、近すぎる距離にある顔に、そっと呼びかける。
 けれど当たり前に、返って来るのは寝息だけ。
 返ってこない応えに、不意に、重ねるのは夢。
 起こしてしまうのは申し訳ないと思いつつ。
 つい、小さく袖を引いてしまう。

「仁吉…」

 応える声を求めて。
 もう一度、名を紡ぐ。
 
「―――っ」

 不意に、腰に回された手が、あからさまな意図を持って動いて。
 思わず、息を詰める。
 目の前の顔は、確かに目を閉じたままだけれど。
 起きているのは、明らかで。

「やめんか馬鹿っ!」

 思わず、至近距離で怒鳴れば、うっとうしげに眉根を寄せて、仁吉がようやっと、目を開く。
 そこにあるのは、不満そうな色。
 
「何だい。寝ているところを起こしてくるんだから、てっきりそうだと思うだろう」
「一体何でそうなるんだ…」

 溜息混じりに零せば、一層、仁吉が不満そうに唇を尖らせる。

「だってお前、もし仮に若だんなに何かあったとして、あたしがそれでも寝扱けていたら、あんな暢気に起こしてないで、お前はあたしの頭を蹴飛ばすだろう?」

 言われて、確かにそうだと頷きかけて。
 否、だからと言ってそれが即、色事の誘いに繋がるものでもないだろうと首を振る。
 それでも。
 いつもと変わらない調子の会話に、何処か安堵している自分に、気付く。

「で?」
「え?」
 
 唐突な問いに、つい、間が抜けた声を上げてしまえば、こつり、額に、仁吉の額が押し当てられる。
 覗きこんでくる眼は、逸らすことを許さなくて。
 一瞬、不覚にも息を飲む。

「何で、起こしたんだい?」

 問いかけられ、つい、視線を逃がす。
 良く考えなくても、夢身が悪かったからなど、あまり大きな声で言えることではない。
 それでも、起こしてしまった事実は変わらなくて。
 突き刺さる視線に、諦めたように、零す。

「また、悪い夢でも見たのかい?」

 言い当てられ、思わず、顔を上げる。
 そこには、困ったような笑みが合って。
 くしゃり、髪を掻き乱す手は、優しい。

「お前はいつも、夢身が悪いといって、あたしを起こすんだね」

 揶揄するような言葉とは裏腹。
 声音はひどく、優しくて。
 思い出すのは、出会って間もない頃。
 過去に囚われていた、自分自身。

「その…夢じゃあないよ」
 
 触れてくるのは、変わらぬ温もり。
 無意識に、擦り寄るような仕草を見せながら。
 佐助がぽつり、零す。

「仁吉が、…まるであたしのこと忘れてしまったかのような…夢だった」

 思い出すのは、冷たい眼差し。
 ひやり、胸の辺りが、今でも冷える。

「あたしが?」
 
 思わずと行った風に目を見開く仁吉に、こくり、頷けば、さも心外そうに、顔を顰める。

「あたしがお前を忘れるわけ無いだろう。百辺生まれ変わったって、忘れやしないよ」
「そ、うか」
「そうだよ」

 さも当たり前と、告げられた言葉に、目元が熱い。
 気恥ずかしさに、逃れるように視線を逸らせば、不意に、その目元に口付けられて。
 顔を上げれば、ひどく優しい眼差しと、ぶつかる。

「そうだよ」

 繰り返される言葉に、つい、零れるのは照れ笑い。
 
「そうか…」

 呟くように、零れた言葉は、仁吉の唇に受け止められて、溶け消えた。


 悪い夢を払ってくれるのは、いつだって同じ手だった。