静かな静寂に包まれた闇の中、そっと身を起こす。
 ふと、隣を見れば、眠っているはずの相方の姿がない。
 厠にでも立ったのだろうと、大して気にも留めずに、立ち上がり、音もなく戸を開ける。
 視線の先に、居なくなった相方の姿を見止め、仁吉は軽く、その切れ長の目を見開いた。

「佐助、何してるんだい?」

 小声で問いかければ、驚いたように一瞬、身を竦ませる佐助。
 
「若だんななら、よく眠ってらっしゃるよ」

 安心させる様な微笑とともに投げられた言葉に頷きながら、しかしそれは、答えになってないと、再度、同じ問いを投げかける。

「いや…若だんなは今年も寝付いておられたから…桜を…」

 照れたように笑いながら言う佐助に、思わずつられ、こぼれる微笑。
 結局、考えたことは同じだったのか。
 春といえど、まだ冷たい夜気が、足元から這い上がってくる。
 裸足の足には、少し冷たい。

「なんだい。お前もかい」
「え…?」

 呟かれた仁吉の言葉に、佐助の口から、呆けたような疑問符が漏れる。
 いつまでもこんな廊下で立ち話なんてしていられないと、先に歩き出しながら、振り返り、吊り上げるのは口角。

「若だんなの為に桜を取りに行くんだろう?」

 確信を持った問いかけに、思ったとおりの屈託ない笑顔と頷きを得て、仁吉はそっと、微笑をもらした―。


「ああ…やっぱりもうほとんど葉桜だ」
 
 自分より少し高い位置から降ってくる残念げな声に、仁吉はその白い指で、佐助の視線よりも、更に上を指し示す。

「上の方ならまだ残ってるよ」

 二人が忍び込んだのは廃屋。
 家主を失った広大な庭は荒れ放題に荒れていたが、目の前の老桜は、主無きとて春を忘れることなく、その枝いっぱいに花を咲かせ、散らせていた。
 降りしきった薄紅の花弁が、足元を埋め尽くし、月の光に、そこだけ白く、浮かび上がらせる。
 今なお、上からはらはらと花弁を散らす様は、春の雪。
 夜の闇にも映えるその様に、二人は寸の間、言葉を失う。

「散る前に…若だんなに見せて差し上げないと…」

 仁吉の言葉に頷いた佐助が、一番近くの枝に手をかけ、ひょいとその身を持ち上げる。
 薄紅の中に立った佐助に、仁吉は再び、指で指し示した。

「もう少し上の方だよ。一番枝振りのいいのを」

 桜が作る淡く白い光の中で、佐助が頷く。
 同じ要領で、また一段高い枝に登る。
 反動で、また、春の雪が舞った。
 見上げ、佐助の位置と、己が見つけた枝との距離を、測る。

「もう少し右…そう、それだ」

 佐助の手が、まだ蕾すら残っている、一番枝振りの良い細枝にかかった。
 と、同時に、何のためらいもなく、ぼきりと、景気の良い音をさせて手折ってしまう。
 はらはらと幾枚かが散ったが、気にするほどのものではない。
 佐助はそっと、大事そうに薄紅の枝を、懐に抱き込むと、くるりととんぼを切って、仁吉の横に降り立つ。
 老桜を見上げ、苦笑しながら言った。

「すまなかったね。ありがとう」

 それは、冗談でもなんでもなく、ひどく素直な感謝の言葉。
 物言わぬ老木にまで、その心を向ける佐助を見遣る、仁吉の目元が、和む。
 その時だった。
 下から巻き上げるように吹いた、酷く強い、一陣の風。
 二人の視界が、淡く白い光に包まれる。
 上も下もわからぬほどの、薄紅。
 ざわざわと、枝が音を立てる。
 天高く、吹き上がる薄紅が、闇に消える。
 まさにそれは、吹雪。
 春の、薄紅の吹雪。

「すごい…」

 呟く佐助が、白い闇に溶ける。
 仁吉は、声も出なかった。
 不意に吹き荒れた風は、やはり、不意に止んだ。
 足元はもう、うずもれるほどの薄紅。
 一息に、立った一瞬で、その花を散らした老桜。
 まるでそれは、二人が来るのを待っていたかのような、潔さすら感じささせる、偶然。

「…待っていてくれたのかい?」

 佐助の問いに、老木は答えない。
 ただ、新緑の葉を、かすかに夜風が揺らすだけ。

「ありがとう、若だんなもきっとお前さんに魅せられるよ」

 もう、残っているのは、佐助の腕の中の花だけだった。

「帰ろうか…」
「あぁ」

 さくりと、踏み出した一歩は、薄紅の中に、すべての音が奪われる。
 白く淡い光を抱いて、家路を急ぐ。


「うわぁすごい」

 翌朝、酷く嬉しそうな一太郎の歓声が、離れに響いた。
 
「すごいね。取ってきてくれたのかい?」

 花瓶に活けられた薄紅を眺める目は、満面の喜色を帯びていて。

「昨日の夜、佐助と二人で取ってきたんですよ」

 その様子を見守る、答える声にも、嬉しさが滲む。

「ありがとう、二人とも」

 向けられた満面の笑みに、仁吉と佐助は、そっと視線を交わしあう。
 
―この笑顔の為なら―

 二人の口元にも、こぼれる微笑。

 柔らかな朝の光が、夜のそれよりも、薄紅を白く、輝かせていた―。