「暑い…」
呟かれた言葉に、白沢はゆるく苦笑しながら、風を送ってやる。
「仕方ないだろう。もう春なんだから」
「障子…開けとくれよ」
行灯の淡い光に浮かぶ障子の向こう、響くのは雨音。
激しい風の唸りを孕んだそれは、ひどく騒々しい。
ようやく咲いた桃の花も、これで散ってしまうだろう。
「無理言うんじゃあないよ。未だ春だよ?寒いに決まってる」
「さっきはもう春だと言ったじゃないか」
拗ねる様な声音に、思わず、漏れる苦笑。
情事の後の、不機嫌そうな、絡むような口調は、いつもの事。
うつ伏せに、向けられた背中も、いつもの事。
その全てが、気恥ずかしさから来ていることは、良く分かっているけれど。
ひどく分かりやすいそれは、思わず、笑ってしまうほど。
それでも、少し寂しい気がするのも、事実。
「―――っ」
裸のままの背に、つっと指を滑らせれば、一瞬、身体が強張る。
顔を埋める組んだ腕の中、小さく、息を詰めるのが、気配で分かった。
その敏感な反応に、笑みを零せば、腕の向こうから睨まれる。
「いい加減顔を上げたらどうだい」
「………」
呆れたように言えば、また、己の腕の中に、顔を埋めてしまう。
大抵、そのまま寝てしまうから。
犬神は朝になるといつも、腕が痛いと、不機嫌そうに顔を顰めていた。
溜息が、寝屋の空気を、揺らす。
「犬神」
「何だい」
応えては、くれるけれど。
相変わらず、背は向けられたまま。
「犬神…」
囁き、背中から抱きすくめれば、反射的に小さく、身じろぐのを軽く宥めて。
その項に、そっと、顔を埋めれば、そこに己が付けた跡を見つけて、思わず、口角が吊り上がるのを止められない。
「こっちを向いとくれな」
「…っそこ、で喋るな…っ」
掛かる吐息が、背筋を震わせるのか。
逃れようと、身を捩るのを、腕の力を強めることで、阻む。
宥める様に、柔く、耳の根元を掻いてやって。
作るのは、少し寂しげな、声音。
「二人でいるのに…背を向けられたままで…あたしが寂しいと思わないとでも?」
「………」
ぴくり、一瞬、犬神の耳が、揺れる。
指先を擽るその動きに、白沢は気付かれぬよう、笑みを零す。
己とは正反対の、褐色の首筋に、顔を埋めて。
「こっちを向いとくれ…」
滲ませるのは、いっそ哀願に近い色。
吐息が、掠めたか。
それとも、他の理由か。
その両方か。
犬神が小さく、息を詰めた。
「犬神…」
応えるように、腕の中の身体が、躊躇いがちに、身じろぐ。
腕の力を解けば、ふさり、白沢の足を、犬神の尻尾が、擽って。
ひどく気まずげに、犬神がようやっと、向き直ってくれた。
俯いたままの目元が、朱い。
促すようにそっと、頬に手を伸ばせば、微かに、擦り寄るような仕草を見せて。
視線を合わせれば、すぐに、逸らされてしまう。
「そん、なつもりじゃあ…無かったんだよ…」
ぽつりと、小さく、零すから。
柔く笑みを零して、その瞼に一つ、口付けを落とす。
「ただ…その…」
珍しく、歯切れが悪い。
もう、頬まで朱くなっていて。
「ただ…?」
本当は、分かりきっているけれど。
敢えて聞き出そうとしている自分に、我ながら性が悪いと、思う。
「こ、事の後、は…ひどく…気恥ずか…しい…んだよ…」
最後の方は、ほとんど消え入りそうで。
とうとう耳まで、垂れてしまった。
その根元を、柔く掻いてやりながら、向けるのは困り顔。
「でもだからって…ずっとそっぽを向いてるのは、ひどいじゃあないか」
「う、ん…」
ひどくすまなそうに、眉尻を下げて頷く犬神。
その様があまりにも愛おしくて。
つい、笑みを零しそうになるのを、必死に堪えてみたりする。
「もう、しない…よ」
「ありがとうよ」
多分今の自分は、ひどく嬉しそうな顔をしているのだろうと、思う。
その微笑を浮かべたままの唇を、犬神のそれに、重ねる。
舌を絡めて吸い上げて。
角度を変えて、何度も何度も。
「んぅ…っ」
犬神から抗う様な声が漏れたけれど、軽く無視していれば、決して弱くない力で髪を引っ張られ、不承不承、唇を離す。
濡れた銀糸が、二人の間を伝う。
それはひどく、艶めいていた。
「あたしの髪は引っ張られる為に長いんじゃあないんだけどね」
「お前が離れないからだろうっ」
睨み付けてくるその目は、潤んでいて。
朱に染まった目元では、愛しいだけだというのに。
けれど、ここで機嫌を損ねては元も子もないので。
苦笑交じりに、布団を引き上げる。
「はいはい。それじゃあ寝ようかね」
「…初めからそうしとくれ」
不機嫌そうに呟くのに、喉の奥底、押し殺すのは笑い声。
互いに抱き合う様に腕を絡めれば、首筋に顔を埋めてくる犬神の耳が、くすぐったい。
「おやすみ」
「…おやすみ」
最後に。
互いの瞼に一つ、口付けを落として。
溶け合うように、同じ体温のまま。
二人、同じ夢の中へと、ゆっくりと意識を手放した―。