鼻腔を突くのは身に馴染んだ生薬の匂い。
 薬種の荷を確認しながら、ふと、視界の端に留まった人影に、顔を上げる。
 それは向こうも同じだった様で。
 一瞬、視線が合う。
 けれどそれは直ぐに向こうから逸らされ、仁吉も同じように視線をまた、手元の帳面に戻す。
 一瞬見えた、相変わらず不機嫌そうな表情に、忘れかけていた苛立ちが蘇る。

「仁吉さん、これは…」

 けれど、それは億尾にも出さず。
 他の手代に呼ばれ、視線をそちらに移し、向けるのは笑顔。
 二言三言、言葉を交わせば、また手元の帳面に視線を落とす。

―まぁ…後で見てるがいいよ―

 にやり、一瞬、僅かに吊り上がった口角は、けれど忙しく荷が行き交う中、誰に気づかれることはなかった―。






「仁吉、皆に変わりは無いかい?」

 夜、布団の中から向けられた一太郎の言葉に、頷き返すのは笑顔。
 手の中の湯飲みから、全部の薬湯が飲み干されているのを確認し、盆に置く。
 金次に任せてから、すんなりと薬を飲むようになった一太郎に、仁吉は機嫌よく、口直しの飴湯を渡してやった。
 湯飲みと共に、皆変わりないと伝えれば、安心したような笑みを浮かべた後、思い出したようにつっと眉根を寄せる。

「お前、佐助とは仲直りしたのかい?」
「……若だんな、もうそろそろ寝てください」

 それ以上の追求を拒むように、一等受けの良い笑顔を用意すれば、一太郎は小さく溜息をついた後、それでも、何を言っても無駄と分かっているのか、大人しく布団に潜り込んだ。
 その横顔が、小さく寝息を立て始めたのを確認し、仁吉はそっと、部屋を出る。
 
「仲直りねぇ…」

 呟き、昼間見かけた佐助の横顔を思い出す。
 意地の張り合いのようになってしまった今回の件。
 それでも、向こうから折れる気は無いようで。
 だったらこっちから折れる必要も無いと、仁吉はその口の端、僅かな笑みを乗せる。

「まぁ折れさせてやるのも手だけれど…」
 
 呟きは、誰に受け止められることなく、夜の廊下に溶けて消えた―。




 

 一太郎が寝扱けてしまったのを皮切りに、宴会はお開きとなり、皆が一人二人と帰って行く。
 後に残るのは、散らかされた部屋と不意の静寂。
 佐助と二人、片付ける音が、無音の部屋に響く。
 何気ない会話は、何度か交わしたけれど、どこか硬い空気はそのままで。
 それを察していたらしい一太郎が、何度か困ったように自分達を見比べていたのは知っていたけれど、佐助の憮然とした横顔に、こちらから折れる気は毛頭湧かなくて。

「灯、落とすよ」
「あぁ」

 佐助が頷いたのを確認して、常夜灯に切り替える。
 もう一度きちんと一太郎に布団を着せ掛けてやり、二人並んで、部屋を辞した。
 いつもと同じ所作。
 いつもと同じはずのそれは、やはり、どこかぎこちない。

「すまなかった」

 部屋に入った途端、不意にかけられた言葉に、僅か、驚いて振り返れば、気まずげに視線を逸らす佐助。
 唐突過ぎるそれに、思わず、固まる。

「……」

 その一瞬の沈黙を呆れとでも取ったのか、佐助が逃げるようにくるり、踵を返す。

「わ…若だんなが心配だから…き、今日は向こうで寝るよ」
「―――っ」

 咄嗟に、その手首を、掴んでいた。
 怪訝そうに見返してくる佐助の目元、余程気恥ずかしかったのか、僅か、朱を帯びていて。
 困惑に揺れる瞳に、思わず、漏れる苦笑。 
 意地の悪いことも考えていたけれど、出鼻を挫かれ、消えてしまう。

「いや…あたしの方こそ…なんだかむきになっちまって…」

 零れた言葉は、己でも驚くほどに素直な言葉。
 顔を上げた佐助と、視線が絡む。
 佐助が、一瞬、驚いたように目を見開いた後、照れたように笑った。
 つられ、笑みが零れる。
 朱に染まった目元に、手を伸ばせば、拒むことなく受け入れられて。
 掌に触れる、久方ぶりの体温が、愛おしい。
 確かめるようにそっと、頬から首筋、耳を掠めて項に触れれば、くすぐったいのか、佐助が喉の奥で、小さく笑う。
 
「仁吉…」

 名を呼ばれ、伸ばされる手に、引き寄せられる。
 優しい響きを持ったそれに、久しぶりに鼓膜を擽るその声に、知らず、身体が震えた。
 首筋に絡む腕に、交わしたのは口付け。
 互いに絡めあった舌に、溶け合う体温。
 それはひどく愛おしくて。
 どちらともなく、漏れる吐息は、熱を孕んでいた。
 久しいそれは、いつもよりも熱を呼んで。
 とくり、脈打つ。

「本当に悪かった…あたしには仁吉が必要なのに…」

 苦い笑いと共に零された言葉に、もういいからと、瞼に一つ、口付けを落とす。

「そんなの…お互い様だろう。あたしだって佐助が必要なんだから…」

 耳に響く己の声は、ひどく優しくて。
 こんな声がこの唇から零れるなんて、以前は思っても見なかった。
 微笑を浮かべれば、視線を絡めたまま、どちらともなく、再び重なる唇。
 艶めいた水音が、熱を煽る。
 首に絡む腕に、僅か、篭る力。
 ゆらぐ、行灯の影が映す、朱に染まった目元。
 
「佐助…」

 名を呼ぶ声に、どうしようもなく愛しさが滲む。
 
「佐助…」

 今までのことを埋めるように、繰り返す。
 何度も何度も、名を呼び、存在を確かめるように。
 
「仁吉」

 応える声に滲む、己に向けられた感情の深さに、知らず、笑みが零れる。
 空白が、埋まる。
 己の裡が、満たされる。

「……」
「……」

 無言で交わす視線に滲むのはどうしようもない愛しさと幸福で。
 その夜、互いの腕の中に帰ってきた、愛しい体温を、二人は何度も交し合った―。