「寒い…」
ぽつり、零された言葉に、伊三郎は苦笑を用意して、振り返る。
離れのこの一室は、十二分に火鉢で温められているのに。
「炭を足そうか?」
だらりと、行儀悪く半身を本体に突っ込んだまま、畳に寝そべる屏風のぞきは、ぼんやりと天井を見上げたまま、ゆるく首を振る。
「いらない。…旦那には暑いだろう?」
一人ごちるように、零す。
このやりとりを、日に何度も交すようになってから、数日が経とうとしている。
本当に寒いわけでは、無いのだろう。
その原因が、なんとなく分かるような気がして、伊三郎は一人、密かに苦笑を漏らす。
しゅるり、衣擦れの音がして、視線を上げれば、足を本体から抜いた屏風が、のっそりと立ち上がった。
「何処か出かけるのかい?」
だったら羽織を持って行けと言えば、ゆるく首を振られる。
「手持ちは?あるのかい?」
「…いらない」
相変わらずぼんやりとした視線のまま、それだけ言うと、ゆらり、部屋の影へと、姿を消してしまった。
はあ、と、吐き出した白い息を、摺り合わせた両の指先へと、掛ける。
無人の蔵は、ひどく寒い。
手足の先が、痛いほど冷えた。
少し埃臭い奥座敷の畳に寝転がりながら、ぼんやりと思うのは真白い影。
もう幾日も、その姿を見てはいない。
寒い…。と、無意識に擦り合わせるのは両の爪先。
だったら伊三郎の部屋に戻ればいい。とは思うけれど、どんなに温められた部屋中にいても、凍えるような心地が、した。
理由は分かりすぎるぐらいよく、分かっていた。
それは、自分でも笑ってしまうくらい。
ごろり、寝返りを打った先。
天井近くに設けられた明り取りの窓がつくる、まあるい陽だまりの真ん中、白い日差しに、思わず、目を閉じる。
「あぁ、いたいた」
不意に、響いた声に、目を開けて、また、白い日差しにきつく、瞼を閉ざす。
ごろり、寝返りを打った先。
真白い爪先が、見えた。
「何だってこんな寒いところにいるんだい?」
ぽんと、頬に置かれたのは細い前脚。
払い除けるように身を起こして。
「聞くな野暮」
ふかりとした毛皮に顔を埋めながら、零した声は、少し上擦っていた。
「此処も随分埃臭くなっちまったねぇ」
「…誰のせいだ」
胸に抱上げれば、肩口で困った様に笑みを零す守狐。
蔵の奥座敷。
いつのまにか、二人、過ごすことが多くなった場所。
二人の、場所。
「寒い…」
「はいはい」
笑う腕の中の姿が、ゆらり、揺れる。
半妖となった守狐を支えきれず、どさり、背中から畳に倒れこむ。
舞い上がった埃が、きらきらと陽だまりに煌いた。
「重いよ」
「逢いたかったよ」
圧し掛かる様に抱きすくめられたまま、耳元で零される声に、きゅうと、胸が締め付けられる心地がした。
「うん」
白い日差しが眩しいから、目を閉じる。
白い日差しが眩しいから、目の奥が、熱い。
「寂しかったよ」
「…うん」
息を詰めるほど、強い力で抱すくめてくる守狐の背に、回した腕に、微かに、力が篭る。
ぎゅっと、着物を握る手指が、微かに震えた。
身を包む体温が、温かい。
「愛しいよ」
頷く代わりに、その白い頬を両の手で包み、己から口付けた。
求めるように舌を差し入れ、絡めとる。
交した熱に、吐息が濡れた。
「欲しい」
たった一言、呟いて、もう一度、角度を変えて口付ける。
何度も何度も、空白を埋めるように。
無音の空間に響く、艶めいた水音。
久しいそれは、簡単に、二人の熱を、煽る。
「ふ…ぅ…」
吐息の狭間、薄め越しに視線を交した守狐の眼が、微笑う。
ぞくり、背筋に震えが、走った。
「起きて」
「ん…」
引き起こされ、胡坐を掻いた守狐の膝を跨ぐ様に、腰を下ろす。
一瞬、離れた体温を、追いかける様に、また、重ねる唇。
視界の端、満足げに揺れる真白い尾が、見えた気がした。
「んぁ…っ」
柔く、首筋を撫でられ、身体が震える。
着物の合わせ目から入り込んできた手に、肌が粟立った。
「寒かった?」
開けた胸元、鎖骨に舌を這わせながら、上目越しに投げかけられた問いに、向けるのは艶然とした、笑み。
裾から零れた脚を、さりげなく絡ませれば、己の白く細い脛を、真白い尾に撫でられる。
「だった、ら…?」
するりと、守狐の着物の合わせ目に、滑り込ませるのは指先。
首筋から鎖骨へと、同じように舌を這わせれば、不意に遮られ、視線を上げれば、口付けられた。
「…は…っぅ、ん」
きつく、舌を吸い上げられ、頭の芯が痺れるような心地がして、思わず、守狐の頭を、掻き抱く。
ふわりとした狐の耳が、腕の内側、柔らかな皮膚を、擽った。
「責任、取らせて貰おうか、ね…?」
天窓から差し込む光に、光る金色の眼が、微笑う。
肌を這う舌に、漏れるのは嬌声。
もっと、欲しいと、己の裡が、渇望する。
深く、深く。
空白を埋める様に。
腕の中、帰って来た温もりを、確かめるように掻き抱きながら。
屏風のぞきの形の良い唇には、満足げな笑みが、浮かんでいた―。
まあるい陽だまりの中。
交す熱に、凍える心地はもう、しなかった。