ちちゅん。
 ちちゅん。
 眩しいくらいに、新緑の若葉を茂らせた庭木に、鳥が鳴く。
 ぱらぱらと、砕いたあられを蒔いてやれば、暫くすると寄ってきて啄み始める。
 愛らしいその仕草に、一太郎はその幼い顔に、嬉しそうな笑みを浮かべた。
 ふと、顔を上げて空を仰ぐ。
 雲一つ無く晴れ上がったそれから、降りてくる風は、いつの間にかすっかり暖かい。
 つい数日前まで、随分長い間寝付いていたから、今年も桜は逃してしまった。
 それが、一太郎はひどく残念でならない。
 今だって、熱は引いた。
 咳もでない。
 なのに、一太郎の兄やたちは、離れから出ることを許してくれない。
 こうやって、小鳥に餌をやるぐらいしか、する事がない。
 いい加減退屈で退屈でどうにかなってしまいそうだと一太郎は思う。

「一太郎…!」

  ばさばさと、音を立てて小鳥たちが飛び上がったのと同時。
  名を呼ぶ声に、小鳥を惜しむ心は、吹き飛んでしまう。

「栄吉っ」

  思わず、破顔する。
  久しぶりに会う親友に、一太郎はひどく嬉しそうに手を振った。

「もぅ治ったのかい?」
「うん」

  こくんと頷けば、栄吉が、二人しかいないのに、さも重大事を打ち明けると言うように、手招くから。
  小首を傾げつつ、言われるままに耳を寄せる。

「俺、すごいの見つけたんだ」
「……なぁに?」

  ひどく興奮したような光を称える栄吉の目に、つられ、一太郎の心も騒ぎ出す。

「仔猫をね、見つけたんだ…!」
「仔猫…っ?」

  一太郎の目が、大きく見開かれるのに、栄吉は何故か満足そうに頷いてみせた。
  こそり、更に秘密を分けてやる。

「それもね、四匹もいるんだ。…三毛が三匹と、真っ白いのが一匹」
「四匹も……っ!」

  そんなに沢山の仔猫など、一太郎は見たことがない。
  そもそも仔猫自体、以前に一度だけ、おしろが連れて来てくれる余所の家の仔猫を見たことがあるくらいだ。 

「それで、それで、どこの家の猫の仔なの?」

  頼んだら、一太郎も見せて貰えるだろうか。
  期待に、心が騒ぐ。
 
「どこの家の猫でもないよ」
「………?」

  一太郎が小首を傾げれば、栄吉は悪戯っぽく笑って、一等の秘密を、分けてくれた。

「野良なんだ。……空き家で生まれて、俺しか知らないんだよ」
「………すごいやっ!」

  一太郎の目が、一等大きく、見開かれる。
  こくこくと、一層興奮気味に頷いて、栄吉が、手を差し伸べる。

「教えてやるから、見に行こうよ。…もぅ調子は良いんだろう?」

  一瞬、不安そうに小首を傾げてくる栄吉の手を、一太郎は迷わず取っていた。
  熱も下がった。
  咳もでない。
  何より、自分たちしか知らない仔猫が、何より魅力的だった。



  にゃあ。
  みゃあ。
  小さな声が、破れた木戸越しに、聞こえてくる。
  本当は走って来たかったけれど。
 そんなことをすれば、一太郎はあっと言う間その喉を咳に塞がれて、倒れてしまうから。
 できうる限りの早足でやって来た、栄吉が見つけたという其処は、空き家と言うより、廃屋と言った方が正しい気がする程に、荒れ果てていた。
 
「どこから入るの?」

  乱暴に、しかししっかりと釘打たれた木戸は、開きそうにない。
  雨風に打たれ、すっかり色あせてしまった板を指先で辿りながら問い掛ければ、栄吉はこっちと、一太郎の小さな手を引いた。
 
「この穴を潜るんだ」
「穴を…っ?」

  示されたのは、板塀の下方に空いた、殆ど雑草に埋もれてしまっている、穴。
  一太郎や栄吉のような、小さな子供がやっと、通れる程度のそれを、栄吉は一足先に、這い潜る。
  一太郎は勿論、今まで空き家に忍び込んだことも、ましてや、板塀に空いた穴を潜ったことも無い。
 
―どうしよう…―

  戸惑いに、眉根を寄せて立ち尽くす。
  それでも。
  にゃあ。
  みゃあ。

「ほら、一太郎早くっ」

  何より仔猫が見たかったから。
  栄吉の声に背中を押され、一太郎は雑草をかき分けた。

「うわぁ…ぼろだぁ…」

  頭についた草の葉を栄吉に払ってもらいながら、一太郎は思わず、呟いていた。
  外からは良く、分からなかったけれど。
  家の土壁は殆ど剥がれ、所々風穴が空いている。
 戸板は壊れて落ちたまま、家の中に泥を招いていた。
  屋根の上には青々とした、名も知らぬ草が生えている。
 庭なんて、一太郎の背丈を越すほどの草に覆われていた。
 ざわざわと、柔らかな風が、草花を揺らす。
 どこかに、蒲公英でも咲いているのか、ふわり、ふわりと、二人の頭上を、真白い綿毛が、飛んでいく。
 鶯が一声、のんびりと鳴いた。
 通りの喧噪も、此処では遠い。
  人の為の家では、とうになくなっているけれど。
  にゃあ。
  みゃあ。
  猫の親子の、安住の地ではあるようだ。
 
「猫、どこにいるの?」

 声はするのに、姿は見えない。
  問えば、栄吉はしっと人差し指を口に当て、視線で床下を示した。

「あんまり大きな声をだすとね、母猫がびっくりして、逃げちまうんだよ」

  言いながら、栄吉はそっと、床下を覗き込む。
  確かに、声はそこから聞こえていた。
 一太郎もすぐ、それに習う。
 黴臭い臭いが、鼻孔を突く。
 一瞬、真っ暗でなにも見えなかったけれど。
 蜘蛛の巣が頭に付くのも構わずに、じっと目を凝らせば、すぐに慣れたそれは、薄闇を映し出す。

「ほら、あの柱の横…見えるかい?」
「うん…!」

  応える一太郎の目は、きらきらと輝いていて。
  その二つの目は、ひたと、示された先にある、小さな愛らしい命を見つめていた。
  小さな小さな、三毛の仔が三匹に、真っ白い仔が一匹。
  眠る三毛の毛皮を纏った母猫の傍で、じゃれあっていた。
  時折、薄目を開けて仔猫達を見守る母猫の眼差しは、慈愛に満ちているように、一太郎の目には、映る。
  仔猫がじゃれつくのに合わせて、右、左、ぱたん、ぱたんと尻尾を揺らしてやっているから、うつらうつらとしながらも、仔猫たちを見守っているのだろう。
  それは、ひどく、愛らしい光景。
 見ているこちらまで、幸福な心地になるような。

「抱いてみたいなぁ…」
「駄目だよ」
 
  思わず、呟けば、存外厳しい声音に窘められて、一太郎は思わず、顔を上げた。
  急に日の光の中に視線を移したものだから、目が痛む。
  反射的に目をこすりながら見やった栄吉は、相変わらず床下を覗き込んだまま、それでも、真剣な声で、言葉を続けた。

「人の匂いがつくとね、母猫が仔猫を世話しなくなっちゃうんだって」 
「そんな…」

  おしろは、そんなこと一度だって言わなかったけれど。
  もしかしたらそれは、人に飼われた猫の子だからかもしれない。
  何より。

「邪魔したら、可哀想だよ」
「うん。そうだね。…見てるだけで、幸せな心地がするもの」

  再び床下を覗き込みながら、小声で言えば、ちらり、栄吉と視線が合う。
  二人、顔を見合わせあって。
  互いに一つ、笑みをこぼしあった。




  にゃあ。
  みゃあ。
  仔猫の声が、名残惜しいけれど。
  もうそろそろ帰らなければ、兄やたちが心配するから。
  何より、勝手に抜け出してきてしまっているから。
  早く、帰らなければならない。
 それは、良く分かっているけれど。
 にゃあ。
 みゃあ。
 やはり、名残惜しい。
 
「また、来ような」

  そんな一太郎の心を見透かしたような、栄吉の言葉に、顔を上げると、屈託無く笑う顔が、そこにあった。
 
「うん…っ」

  大きく一つ、頷いて。
  来たときと同じ様に、差し出される手を取って、歩き出す。
  板塀の破れ目は、見つからないように、念入りに草で隠した。

「俺たちだけの、秘密だからな」

  言う、栄吉の目は真剣で。
  『秘密』と言う言葉に、一太郎の心が、騒ぐ。

「わ、我と栄吉だけ?」
「うん。俺と一太郎だけの、秘密」

  ずいと、目の前に差し出される小指に、一太郎はまだ小さな己のそれを、絡め返しす。

「げんまん」
「げんまん」

  見合わせた顔に、互いに浮かべるのは、同じ色の、笑み。
  小さな小さな秘密の共有は、幼い心を心地よく騒がせる。
  にゃあ。
  みゃあ。
  愛らしい声に背中を押され。
  二人仲良く、家路を急いだ。




 家に帰れば、案の定兄やたちはひどく心配していて。
 それ故に、山のような小言と苦い苦い薬湯をたくさんたくさん、飲まされてしまったけれど。
 何処に行っていたか、何をしていたかと、どんなに問い詰められても、一太郎は決して、口を開くことは無かった。
 夜、布団の中で、じっと見つめるのは、己の小指。

―だって、秘密だもの。栄吉と、我だけの、秘密だもの―

 胸に満ちるのは、秘密の共有と言う、初めて味わう、喜び。
 耳に蘇るのは、愛らしい声。
 その日、一太郎は四匹の仔猫と母猫と、栄吉と一緒になって、あの廃屋の庭を駆け回る夢を見た―。