耳を聾するほどの爆音に、噎せ返るような煙草の匂い。
紫煙に霞む狭いライブハウスの最後部から、随分と薄いオレンジジュースを片手に、水野はステージを眺めた。
知らないジャンルのバンドが、多分、巧いと賞されるはずの、ステージングを繰り広げる。
最前列では、拳を突き上げ暴れ狂う観客が、それに応えていた。
正直、誘ってくれた藤代には悪いが、帰りたい。
「水野!」
不意に腕を掴まれ、顔を上げれば、何事が叫ぶ藤代がいて。
慌てて耳を寄せれば、ちょうどステージの上のバンドも、演奏を終えたところだったらしく、外へ出ようと促される。
「ごめんな、付き合わせて」
「いや、いいよ」
外に出れば、地上へと続く階段に、数人がたむろっていて。
同じ年頃のはずなのに、制服を脱いだ彼らの横顔は、ひどく大人びて見えて、少し、気圧される。
「けど、巧かっただろ?」
言われて、先程の爆音を思い出す。
まだ少し、鼓膜の奥で、耳鳴りがしていた。
「ん、まぁ…」
曖昧に、笑って誤魔化す。
確か先程のバンドの、ギターだかベースだかが、藤代の友人で、チケットを買ってくれと頼み込まれたらしいのだ。
一枚千円で、一バンドにつきノルマ三十枚。
達成できなければ、赤字になるのだから、同じ高校生である彼等も必死だ。
何より、多くの人に見てもらいたいのだろう。
「ボーカルの人、特にスゴかっただろ」
「あ?あぁ…」
思い出すのは、ステージの中央。
叫ぶように唄う姿は、確かに、高校生にしては巧かったように思う。
「ちょっとさ、藤村に似てない?」
「はぁ?」
何気なく言われた一言に、思わず、頓狂な声を上げてしまう。
「どこが…」
「あ!出てきたっ!」
言いかけた途端、捌けてきた先程のバンドメンバーを見つけ、楽屋出入り口へと走っていってしまう藤代。
慌てて、後を追えば、友人のギタリストだかベーシストだかを、紹介される。
汗に濡れ、透けたTシャツの肩に、担いでいる楽器は、弦が多いからギタリストだろうか。
嬉しそうに礼を言う笑い顔は、試合の後の自分達と、同じ色をしていた。
「シンさん、この子らうちのお客さんッスよ!」
背後の、狭い楽屋に向かって、ギタリストが叫ぶ。
呼ばれて、ひょいと顔を覗かせたのは、先程のボーカリストだった。
「やぁそうなん?ありがとぉな」
汗で額に張り付いた金髪を払いながら。
屈託なく笑い告げられた西の言葉に、軽く目を見開く。
「ほら、ますます似てるじゃん」
揶揄するように笑いながら。
小声で囁いてくる藤代に、どこか不機嫌そうに、水野は眉を顰めた。
そう言えば、もう三ヶ月以上、シゲの顔を見ていない。
「金髪で関西弁なら、みんなシゲかよ」
言いながら、視線をボーカリストに投げる。
シゲはもっと目尻が切れ上がってて、シゲはあんなにも、鼻は低くない。
唇だってこいつより形が良くて、少し薄くて…。
何よりシゲの声は、こんなんじゃないと、内心で次々と相違点を挙げていく。
シゲは、シゲはと、いつの間にか、思考の全てが、シゲの事で埋め尽くされているのに、水野自身は気づかない。
「そうかなぁ?似てると思うけど」
「似てないっ!」
思わず、強く否定してしまう。
知らず、ポケットの中のケータイを握り締めて。
電波の入る地上へと、階段を賭け上がっていた。
「どないしたん。珍しいやん」
コール三回。
すぐに、耳に届いた柔らかに優しい声に、どこか安堵する。
良く聞けば、先程のボーカリストよりも、シゲの使う言葉の方が、響きが柔らかいことに、気付く。
似ていないのだ。
全く。
シゲは欠片も、此処にいない。
「あいたい」
「…え?」
受話器の向こう、驚いた様に息を飲むシゲと同時に、自分で自分の言葉に驚いた。
知らず、零していた言葉。
そうだ。
自分は、シゲに逢いたいんだと、自覚する。
あんな偽物じゃなくて、本物のシゲに。
「来いよ」
「……分かった」
言ったきり、ぷつりと電話は切られて。
真逆本当に来るわけないよなと、苦笑を漏らして、冷たいコンクリートの壁に背を預ける。
手の中の紙コップは、随分と温くなっていた。
軽く、溜め息を吐いて。
藤代たちの元へと、階段を降りる。
左右の壁にべたべたと貼られたライブ告知のフライヤーが、風にはためいていた。
「急にどないしたん。友達びっくりしとったで」
「何?電話?」
「ん。…悪かった」
金髪の肩越しに聞いてくる藤代に、軽く頷いて、苦笑する。
ふと、背面ディスプレイに表示される時刻を見れば、もう随分と遅い。
渋沢ならまだしも、三上に叱られるのだけは、嫌だと思った。
「打ち上げ、自分らも来るやろ?」
薄汚れたフロアのタイルに、腰を下ろしながら、くわえ煙草に火をつける金髪。
吐き出された紫煙が、うっとうしい。
シゲなら絶対、自分に煙が掛かるようなことはしないのにと、微かに苛立つ。
「え?いいんッスかっ?」
目を輝かせた藤代が、伺うように見遣ってくるから。
明日も朝から練習だと、思い出させてやる。
「朝から?大変やなぁ」
へらり、笑う顔は、一つ上らしいが、それよりも大人びて見えた。
そこが、ほんの少し、本当にほんの少しだけ、シゲに似ていると、認めても良い点だった。
「じゃあ、俺ら帰ります」
「ん。また来たってや」
「今日はありがとう」
手を振って見送ってくれる、金髪と、ギタリストに軽く手を振り替して、寮へと急ぐ。
門限はすぐそこまで、迫っていた。
「今日は疲れた。な…」
「良いよなぁ。俺また行きたいな」
熱狂の余韻がまだ残っているのか、楽しげな藤代の声が、ちかちかと貧相な光を投げかける街灯に照らされた、薄暗い路地に、響く。
アスファルトに伸びる影を足早に踏みながら、次は他の誰かを誘ってくれよと、内心で苦笑する。
脳裏にあの、金髪がちらついた。
―次の休みには行ってみるか…―
鼓膜に蘇る、シゲの声。
逢いたいと、強く思った。
「おやすみぃ」
間延びした声と同時。
藤代に飛び込まれたベッドが、派手な悲鳴を上げる。
「おやすみ」
潜り込んだ布団の柔らかさに、そっと安堵して。
鼓膜の奥に残る耳鳴りを、振り払う。
自分が思うより疲れているのか、もう瞼が重い。
かろうじて残った意識で、枕元のケータイに、充電器のプラグを差し込む。
隣のベッドからはすぐに、藤代の寝息が、聞こえ始めた。
―次の休みいつだっけ…―
ばらけ始めた思考の中、ぼんやりと辿る。
いきなり行ってみるのも、おもしろいかもしれない。
逢ったら、今日の金髪の話をしてやろう。
お前の方が男前だったと言えばつけあがるだろうから内緒にして。
突然の来訪に、驚き、目を見開くシゲを想像して、口元が緩むのを感じながら、水野はゆっくりと、その意識を眠りの海に沈めていった。
ふと、軽い衝撃が意識を揺らしたような気がして。
無意識にシーツを弄れば、ずいぶん馴染みのある感触が、指にまとわりついたから。
「………痛っ」
いつものように、いたずらに指を引けば、反射的に上がる悲鳴に、いつものように口の端を上げそうになって、それは今此処に存在しないはずの奴の声だと、はたと気付く。
「シゲっ!?」
「もぉ…髪引っ張るんやめぇゆうたやろ」
がばり、身を起こせば、迷惑そうに眉を顰めるシゲに、いつものように睨み付けられ、違うだろと叫びかけて、ようやく隣の藤代の存在を思い出して口を塞ぐ。
「お前なんでここにいるんだよ…」
もう一度潜り込んだ布団の中、押し殺した声で問い掛ければ、随分と近い距離で、心外そうにシゲが片眉を引き上げる。
「何でって…タツボンが来いゆうたんやんか」
言われて、納得できるものではない。
時計を見れば、電話をした時刻から4時間は経っていて。
確かに、来れないことはないけれど。
「だってあんな寂しそうな声で『あいたい』なんて言われたら、来てまうやろ。普通」
「そんな声してない……っ!」
思わず、大きな声を出してしまえば、シゲが手の平で窘めるように口を押さえてきたから、慌てて、藤代のベッドを伺えば、穏やかな寝息が返ってきて、ほっと安堵する。
「別に寂しくなんか…」
それでも、黙る気にはなれなかったから、小声で言い募れば、近すぎる距離から覗き込まれ、言葉が消えてしまう。
「俺は、寂しかったで」
ぎゅっと、抱きすくめてくる腕に、数センチあった互いの距離が、ゼロになる。
耳に響く声は、触れる温もりは、確かに、シゲのそれで。
鼻孔を掠める、微かな煙草の匂いに、あぁ本物だと、思った途端、きゅうと、胸が疼いた。
「お前が寂しがるから、呼んでやったんだよ」
不遜げな言葉は、簡単に吐き出せるのに。
縋るように首筋に回してしまう腕を、解くことはどうしても、できなかった。
逢いかったのだ。
ずっと。
「意地っ張りやなぁ」
耳朶を擽る、柔らかな音の苦笑。
あの金髪とは、全然違うそれは、どうしようもなく愛しい。
「今日さ…」
「うん?」
いきなりどうしたと、覗き込んでくる、シゲの額に、口付けを一つ、落として。
ぽつりぽつりと、言葉を零す。
「藤代の友達のライブ行ってきたんだ」
「高校生バンド?」
こくんと、頷く。
脳裏にあの、金髪が蘇る。
「そのバンドのボーカル、金髪で関西弁喋んの」
「…………」
「藤代がお前に似てるってさ」
あからさまに面白くなさげに、顔を顰めるシゲに、思わず、笑ってしまう。
「金パで関西弁やったらみんな俺かい」
その上、全く同じことを言い出すから。
声を立てて笑えば、一層、不満そうに唇を尖らせるか、フォローに回ってやることにした。
「顔なんか全然似てないんだけどな。それにお前の言葉の方が、響きが柔らかいし…」
「…………タツボン」
「……?何…?」
急に、驚いたように見開かれた目で、見つめられ、怪訝に小首を傾げた途端、にやりと、口角を釣り上げられて、身構える。
「関西の連中でもな、地域のイントネーションって、聞き分けるん難しいんやで」
「………だから何だよ」
揶揄するような笑みを満面に浮かべるシゲを、一応、睨みつけてみるが、効果がないのは長い付き合いで知っていた。
「聞き分けが出来るぐらい、俺の声、聞いてくれとったんや?」
「――――っ!違うっ!」
言われ、かっと一息に頬が熱くなる。
常夜灯の薄闇でなければ、耳まで赤くなっているのが、きっと分かってしまっただろう。
「俺は耳が良いんだよっ!」
「ふぅん?」
噛みつくように言えば、一層揶揄いの色を濃くして覗き込んでくるのが腹立たしい。
「寝ろよもう!」
「はいはい。明日練習混ぜてな」
「………知るか」
どんなに素っ気なく言ったって。
耳元でくつくつと響く忍び笑いが神経を逆撫でる。
もう絶対に、『シゲの方が男前だった』なんて、言ってやるもんかと、半分以上ケットを取り上げながら、水野は思った。