「ふふ…」

 不意に、寝屋の薄闇を揺らした微かな笑い声に、仁吉は器用に、片眉を引き上げる。
 背後から抱き込んだ佐助の顔を覗き込めば、まだ笑みの残る瞳と、ぶつかった。

「何だい?いきなり」

 つられて、口元に笑みを浮かべながら問えば、佐助がまた、思い出したかのように、笑う。

「いやね、昼間の若だんなさ」
「あぁ…」

 正当ではないと言えば、眉根を寄せて考え込んでいた横顔を、思い出す。
 まだ若い案を思い出し、仁吉は微かに、苦笑を漏らした。

「まぁ、紙の上の御話なら、あれで上出来なんだけれどねぇ…」

 呟けば、寝る気は失せたのか、くるりと身体を反転させながら、佐助が頷く。
 
「人の思いは難しいから…」

 向かい合った佐助は、ひどく優しい、笑みを浮かべていた。

「それが、どうかしたのかい?」

 そんなことを、思い出して笑っていたのだろうか。
 小首を傾げながら訪ねれば、佐助がまた、小さく笑みを漏らす。
 
「いや…屏風の奴にね、先に『若だんなだってもう子供じゃあ無いんだ』、と言われてね」
「…………」

 仁吉の眼に剣呑な光が宿ったのを察したか、佐助が軽く、窘める様に睨めつける。
 何か言われるかと思ったが、結局、呆れたように溜息を一つ吐いただけで、言葉を続けた。

「寂しい心地がしたのさ…。人の子の成長は早すぎる…」

 ほんの少し、寂しげな色が滲んだその声が、きゅっと、仁吉の胸にも、棘を差す。
 知らず、佐助の身体に回した腕に、力が篭る。
 その腕にそっと、佐助が手を重ね、宥めるように、小さく叩いた。

「だけど、ね…」

 薄闇に、佐助の声が、滲んで溶ける。
 ふふっ、と、また、微かな笑い声が、二人だけの空気を、揺らした。

「昼の若だんなの答えを聞いてね、…『あぁ、まだ当分は、大丈夫だな』と、思ったのさ」

 まだ若い、拙い答えは、一太郎の幼さを示しているように思えたから。
 
「まだ当分は、存分にお世話が出来るなって」
 
 その言葉に、仁吉もようやっと、小さく、笑みを零した。
 
「当たり前さね。…若だんなにはまだまだ、我らの力添えが必要だ」
「うん…」

 ふふっ、と、今度は二つの微かな笑い声が、二人だけの空気を、揺らす。
 一太郎は、言えばまた、不満げに頬を膨らませるだろうけれど。

「若だんなには、ゆっくり、ゆぅっくり、大人になってもらいたいね…」
「そうさね…我らが存分に、世話を焼けるように。…ゆぅっくり、ね」

 繰り返す言葉に、互いから漏れる微笑は、ひどく優しい色を、浮かべていた。
 一太郎には、立派な人になってもらいたいとは、誰より強く、思うけれど。
 それは絶対に、早すぎてはいけないのだとも、思う。

「あんまり早く大人になられては、寂しいものねぇ…」
「うん。…できることなら、ずぅっと赤子のままでも良かったぐらいだ」

 言えば、佐助が声を立てて笑う。
 
「若だんなが聞いたら、拗ねられてしまうよ」
「ならば、菓子でも買って、機嫌を取るよ」
「それじゃあ、鳴家たちと同じじゃあないか」

 呆れたような言葉に、先の騒ぎを思い出し、また、笑い声が、二人の間から、上がった。

「ねぇ、仁吉」
「うん?」

 佐助がそっと、布団を引き上げながら、ぽつり、呟く。

「ずぅっと、ずぅっと、こんな時が続けばいいのにね…」

 薄闇の中、そのありふれた言葉は、どこか寂しげな色を滲ませていた。

「……うん…」

 きゅっと、互いに抱き合うように、身体に回した腕に、力が篭る。
 どこからか流れてきた梅の香が、微かに、鼻腔を擽った。

「ねぇ、佐助」
「うん?」

 薄闇の中、見上げてくる瞳に、向けるのは微笑。

「拗ねられても、むくれられても、存分に、お世話をさせて頂こうよね」

 佐助の眼が、一瞬、驚いた様に、見開かれる。
 けれどそれはすぐに、ひどく柔らかい、笑い顔に、変わる。

「そうさね。…明日も、明後日も、その先も…ずぅっと、ずぅっと、誰よりたくさん、ね」
「誰より『いちばん』を、あの子にね」

 拗ねられても、むくれられても。
 最後には、楽しく、明るく、笑ってくれるように。
 精一杯、存分に。
 いられるだけ、傍にいたいと、二人は思う。
 互いに交わすのは、ひどく優しい、微笑。

「ずぅっと、ずぅっと、ね…」

 ありふれた言葉を、まるで願い事のように、何度も何度も、繰り返しながら。
 互いに抱き合うように絡ませた腕の中。
 二人はそっと、目を閉じる。
 明日も明後日もその先も。
 一太郎の傍にいる為に―。